子連れ旅行、イギリスの歴史とロンドンの旅について

今回は、イギリスのロンドンに1泊2日の子連れ旅行をした時のことについて綴らせていただきます。

目次

飛行機でロンドンへ

我が家は飛行機に乗ってロンドン郊外のロンドン・サウスエンド空港に行き、サウスエンド空港からロンドン中心部のターミナル駅であるリバプール・ストリート駅まで電車で行きました。

みどり
イギリスはシェンゲン協定(ヨーロッパ諸国間で出入国審査なしに自由に国境を越えることを認める協定)に加盟していないので、空港で入国審査がありました。入国審査の列に1時間くらい並びました。無表情で厳しそうな入国審査官に入国の目的、宿泊するホテル名、職場、何の仕事をしているか等細かい質問をされました。他のヨーロッパ諸国への旅行では入国審査が無かったので、イギリスは厳しいなぁ〜と感じました。入国を許可してもらえた時はほっとしました。
ロンドン・サウスエンド空港です。ロンドンの郊外には6つの国際空港があります。
リバプール・ストリート駅です。都会でした。治安はそんなに悪くないと感じました。文字が英語だから読めるのが新鮮に感じました。

イギリスの歴史

ロンドンはイギリスの首都です。イギリスの正式名称はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)で、英語では「United Kingdom」や略して「U.K」と呼ばれています。イギリスはイングランドとウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国が連合した立憲君主制の単一主権国家です。

ローマ帝国の属州、ブリタニア

グレートブリテン島には古代にはケルト系ブリトン人が住むブリタニアがありましたが、40年から410年までの間、ローマ帝国に併合され、ブリタニアはローマ帝国の属州となっていました。紀元後1世紀頃、ローマ人はテムズ川北岸にロンドンの起源であるロンディニウムの町を築きました。ゲルマン人の大移動によって395年にローマ帝国が東西に分裂すると、ローマ帝国は属州ブリタニアを放棄しました。

アングロ=サクソン人(ゲルマン人)移住、キリスト教化

4世紀後半、ゲルマン人が大移動を始め、ゲルマン人の一派のアングロ=サクソン人が449年にドイツ北岸からグレートブリテン島南部に渡ってきました。その後、グレートブリテン島には南部から中部にかけてアングロ=サクソン人が建国した7つの王国が出来ました(七王国時代)。6世紀末、ローマ教皇のグレゴリウス1世(教皇就任590‐604)はゲルマン人への布教を積極的に進めてグレートブリテン島に修道士を派遣し、アングロ=サクソン人のカトリック化が進展しました。

イングランド王国/ウェセックス朝

829年、七王国の1つのウェセックス王国のエグバートが七王国を統一し、イングランド王国となりました

この頃、グレートブリテン島北部ではアイルランド島から移住してきたケルト系スコット人による統合が進み、9世紀にスコットランド王国が成立しました

イングランド王国/デーン朝

9世紀半ば頃から約200年にわたり、北ヨーロッパのノルマン人(北方系ゲルマン人)のヴァイキングがヨーロッパ各地に進出しました。980年、ノルマン人の一派のデーン人のイングランドへの侵入が激化し、1016年、イングランド王エゼルレッド2世がフランス北西部のノルマンディー公国に亡命すると、デーン人のデンマーク王国の国王のクヌートがイングランド王位を継承しました。1035年にクヌートが亡くなると、1042年にエゼルレッド2世の子エドワード懺悔王(在位1042‐1066)のウェセックス朝が復活しました。エドワード懺悔王は熱心にキリスト教を保護し、ウェストミンスター寺院とウェストミンスター宮殿(現国会議事堂)を建設し、ノルマン朝ウィリアム1世の時代に完成しました。

みどり
ウェストミンスター寺院はこの頃に建てられたのね。

イングランド王国/ノルマン朝

1066年、ノルマンディー公国のウィリアム1世(在位1066‐1087)がイングランド王国を征服し、ノルマン朝になりました。ウィリアム1世はフランス出身でフランス語を使っていて、イギリス国王であるとともにフランス王の臣下のノルマンディー公でもありました。ウィリアム1世は強力な封建王政を確立しました。

ウィリアム1世はロンドンを外敵から守るためにロンドン塔を要塞として建設を始めました。

イングランド王国/ブランタジネット朝

1154年、ノルマン朝が断絶したため、血縁関係にあったフランス王国の臣下のアンジュー伯アンリが王位を継承し、イギリス国王ヘンリ2世(在位1154‐1189)となりました。ヘンリ2世はケルト文化と5世紀から入っていたカトリック信仰をしていたゲール人が住んでいたアイルランドへも侵攻し、それ以降、アイルランドにイングランドからの移住が増えました。

王の力を制限する議会制度の始まり

プランタジネット朝時代のジョン王(1199‐1216)は、ローマ教皇インノケンティウス3世(在位1198‐1216)に破門され、フランス王フィリップ2世(1180‐1223)と争い、ヘンリ2世から受け継いでいたフランスの西部の領土の多くを失い、貴族の反発を招きました。ジョン王の失政の結果、1215年、貴族達は王に対して王の権限の制限を迫り、課税をする際には貴族の同意を必要とする大憲章(マグナカルタ)を承認させました。

ジョン王の次のヘンリ3世(在位1216‐1272)は、ジョン王が失った領土を回復しようとフランスに侵攻して失敗し、また、大憲章(マグナカルタ)を無視して貴族に課税したため、貴族からの反発に遭いました。そして、貴族のシモン=ド=モンフォールが反乱を起こし、1265年に貴族や聖職者、騎士、都市の代表者などが国王の政治を評価・審議するための諮問議会(下院の起源)を開きました。また、その次のエドワード1世(在位1272‐1307)の治世の頃、1295年に模範議会が開かれました。エドワード3世(在位1327‐1377)の頃には、上院(貴族と聖職者)と下院(騎士と都市の代表)のによる二院制議会が確立しました。

イングランド王国/ランカスター朝→ヨーク朝

リチャード2世(在位1377‐1399)は専制的な政治をしたため、貴族に捉えられて廃位され、プランタジネット朝は終わり、ランカスター朝(1399‐1461)になりました。その後、ランカスター家とヨーク家の王位継承をめぐるバラ戦争(1455‐1485)を経てヨーク朝(1461‐1485)になり、その後ランカスター家の一族のデューダー家のヘンリ7世(在位1485‐1509)が国王に即位してデューダー朝になりました。

イングランド王国/デューダー朝

宗教改革

デューダー朝のヘンリ8世(在位1509‐1547)は男の子を生めない妻キャサリンと離婚し、愛人のアン=ブーリンと結婚したいと思っていましたが、ローマ教皇クレメンス7世に離婚を訴えましたが認められなかったため、離婚を認めないカトリック教会を離脱し、1534年にイギリス国教会という新しい宗派を成立させ、自らその頂点に立つ「首長法」を発布しました。ヘンリ8世の死後、エドワード6世(在位1547‐1553)が一般祈祷書を公布し、エリザベス1世(在位1558‐1603)は1559年に統一法を発布し、礼拝や儀式に関する作法を定め、イギリス国教会を確立しました。

絶対王政と大航海時代

エリザベス1世はイギリスの絶対王政の頂点にありました。1588年、エリザベス1世は当時絶頂であったスペインの「無敵艦隊(アルマダ)」を撃破しました。アルマダ海戦によってスペインを衰退させたエリザベス1世は1600年に東インド会社を設立し、東南アジアとの香辛料貿易やインド植民地統治をしました。

みどり
エリザベス1世はイギリス絶対王政の全盛期を築き、国内の安定、繁栄につとめたことから「愛すべき女王ベス」と国民から敬愛されていたようです。しかし、姉にロンドン塔に長く監禁されたり家庭環境が複雑だったため、結婚を遠ざけて生涯独身だったことから「処女王」とも呼ばれています。

イングランド王国/ステュアート朝

生涯独身だったエリザベス1世の死後、北部スコットランド王国の王ジェームズ1世(在位1603‐1625)がイングランド王も兼任する形で国王に即位しました。ジェームズ1世は「王の権力は神から与えられたものであり、絶対だ」とする「王権神授説」を唱え、独裁を行いました。その息子のチャールズ1世(在位1625‐1649)も議会を無視し、欲しいままに税をかけようとしたため、1628年、議会は「税をかける時には議会の同意を得てから」とする「権利の請願」を提出しました。しかし、翌年、国王は議会を解散してしまい、その後1640年まで議会は開催されませんでした。1639年にスコットランドの反乱がおきると、チャールズ1世は戦費調達の同意を得るために議会を招集し、1640年に短期議会、長期議会が開かれました。解散させられたのに資金調達の必要がある時だけ議会招集させられることに不満を持つ貴族が現れ、貴族は王に味方する王党派と、議会に味方する議会派の2つに分かれるようになりました。

共和制、クロムウェルの独裁

清教徒(ピューリタン)革命

ジェームズ1世やチャールズ1世はカトリックやカルヴァン派(イギリスではピューリタンという)を禁止して、イギリス国教会の信仰を強要していました。それに対して、議会派のクロムウェル(1599‐1658)はカルヴァン派(ピューリタン)のリーダになると、1642年に鉄騎隊を編成しました。1645年にネーズビーの戦いで王党派を破るとチャールズ1世は議会派に引き渡されました。1649年、王を処刑して共和国を宣言しました。

みどり
この時迫害されたカルヴァン派のピューリタン達の中には、アメリカ大陸に渡って行った人も沢山いました。それでアメリカはプロテスタントの人が多いです。

清教徒革命によって国王がいなくなり、イギリスは「共和制」になり、クロムウェルがリーダーになりました。

アイルランド征服

アイルランド王国は1171年にヘンリ2世が侵攻して以来、形式的にイングランド王国の属領となっていましたアイルランド王国はカトリック信仰が根付いていました。清教徒革命でチャールズ1世が処刑された時、チャールズ1世の息子はオランダに亡命していました。イギリス国教会の信仰に反発していたアイルランド王国は、オランダに亡命した息子をチャールズ2世として迎えると宣言しました。そのため、1649年、クロムウェルはカトリックと王党派の勢力を弾圧するためアイルランド王国を征服してイングランド共和国領としました。このアイルランド征服でアイルランド人は土地の40%を失い、アイルランド王国はイングランド共和国の植民地となりました。

みどり
私は20代の頃、U2が大好きでした。だから、1960年代から2000年代まで続いたアイルランド紛争に興味があったので、イギリスの歴史に興味があります。私の中では一番重要なところです。

イギリス=オランダ戦争

クロムウェルは1651年、イギリスとその植民地からオランダ船を締め出して自国の海運業の発展を図るための「航海法」を制定しました。それにオランダが反発し、1652年にイギリス=オランダ戦争が起こりました。この戦争でイギリスはオランダを破り、オランダは覇権を喪失し、イギリスがオランダに代わって世界の貿易市場を率いるようになりました。オランダは1626年からアメリカのニューヨークの元となったニューアムステルダムを建設していました。しかし、イギリス=オランダ戦争でイギリスが勝利して、1664年にニューアムステルダムはイギリス領ニューヨークになりました。この頃、クロムウェルの独裁が強くなり、1653年、自ら「護国卿」という終身の役職を創設して就任し、議会を解散して独裁政治をしました。

イングランド王国/王政復古ステュアート朝

1658年、独裁政治をしたクロムウェルが亡くなると、クロムウェルの独裁政治に反発していた国民の声が高まり、亡命していたチャールズ2世(在位1660‐1685)が国王に即位し、王政復古しました。しかし、チャールズ2世もその次のチャールズ2世の弟のジェームズ2世(1685‐1688)も議会を解散して独裁政治をしました。

名誉革命

王政復古して再び王の独裁政治になってしまうと、議会は独裁を防ぐために海外から王を招き、議会を尊重するという条件で王位についてもらおうと決定しました。そして、ジェームズ2世の甥のオランダ総督ウィリアム3世に手紙を書き、その妻のメアリ2世と共に王位就任を要請しました。1689年、ウィリアム3世とメアリ2世がイングランド国王に即位すると、議会は「王よりも議会が優位である」と宣言した『権利の宣言』を提出し、両王が署名すると『権利の章典』として国民に発表しました。

イングランド王国とスコットランド王国合同⇒グレートブリテン王国

ウィリアム3世の死後、ジェームズ2世の子のアン女王(在位1702‐1714)が即位しました。アン女王は1707年、イングランド王国とスコットランド王国を合同し、グレートブリテン王国を成立させました。

グレートブリテン王国/ハノーヴァー朝

「王は統治すれども統治せず」、初めての内閣誕生

1714年、アン女王が亡くなると、スチュアート家は断絶しました。そのため、議会は外国から王を迎えるためにドイツのハノーヴァー家からイギリス王室の血を引くジョージ1世(在位1714‐1727)を即位させました。ジョージ1世は英語が話せなかったため、国政は議会任せになり、王より議会が優位の体制が固まっていきました1721年、初めての内閣が出来て、ウォルポール(在位1721‐1742)が初代首相になりました。

イギリス重商主義、世界商業の支配

1623年、インドネシアの東部のモルッカ諸島の香辛料獲得を巡るオランダ王国とイングランド王国の抗争(アンボイナ事件)がおき、この事件以降イングランド王国はこの地を去り、インド植民地経営に専念するようになりました。また、フランス王国も1664年に東インド会社を設立してインドに進出し、シャンデルナゴルやボンディシェリ等を占領していました。

さらに、イングランド王国はアメリカ大陸に進出し、ヴァージニア植民地、ニューイングランド植民地などの13植民地を建設しました。また、同時期にフランス王国のルイ14世もアメリカ大陸にケベック植民地やルイジアナ植民地を築いていました。

みどり
カナダのケベック州は現在もカナダで唯一フランス語が公用語です。

イギリスとフランス両国は植民地を奪い合うようになりました。1754年、フレンチ=インディアン戦争が起こりました。この戦いで、グレートブリテン王国はフランス王国とアメリカのフランスの植民地のインディアンに勝利しました。また、1757年、インドでプラッシーの戦いが起き、この戦いでもグレートブリテン王国がフランス王国を破りました。これらの戦いでフランスに勝利したグレートブリテン王国は、世界貿易の最終的な勝者となり、「大英帝国」の足掛かりを築きました。

みどり
スペインはオランダに敗れ、オランダはイギリスに敗れ、フランスもイギリスに敗れて、最終的にイギリスが世界貿易の市場を確保しました。イギリスは伝統的な毛織物産業やインドで作られた綿織物の貿易で資本を蓄えていきました。さらに、イギリスでは農業革命が行われ、ノーフォーク農法が導入されました。それによって農業が効率化されて土地と仕事を失った農民が工場労働者となっていきました。(エンクロージャーで工場労働者が生まれ、それが産業革命に繋がっていきました。)

産業革命

グレートブリテン王国はインド植民地で綿製品を輸入していましたが、やがて自国で綿製品を安く大量に生産しようとするようになりました。1733年、ジョン=ケイが織機「飛び杼」を発明しました。また、1779年にクロンプトンがミュール紡績機、1785年にカートライトが力織機を発明しました。さらに、1769年にワットが蒸気機関を完成させ、動力革命が起きました。また、1735年、ダービーがコークス製鉄法を発明し、鉄工業も発達しました。蒸気機関や鉄工業の発達により、蒸気船や蒸気機関車が開発されました。1819年、フルトンが開発した蒸気船が大西洋横断に成功し、1830年には工業都市マンチェスターと港町リヴァプール間でスティーヴンソンが開発した蒸気機関車の営業運転が始まりました。これらの産業革命によって、イギリスは「世界の工場」となっていきました。

グレートブリテン=アイルランド連合王国成立

クロムウェルがアイルランド王国を征服した後、アイルランド王国は実質的にグレートブリテン王国の植民地となっていました。グレートブリテン王国は1707年のスコットランド王国併合と同じように、1801年にアイルランド王国を併合し、グレートブリテン=アイルランド連合王国が成立しました。

みどり
その後、1919年から1921年までアイルランド独立戦争が起きて、1922年、北アイルランド6州はイギリス領となってグレートブリテン=北アイルランド連合王国になりました。アイルランドのその他の26州はアイルランド自由国となりました。第二次世界大戦後も北アイルランド紛争が勃発し、1998年の「北アイルランド和平合意」まで続きました。U2の歌、「Sunday Bloody Sunday」はこの紛争を歌っています。イギリスの成り立ちが分かったので、歴史はここまでにします。

ロンドン観光

ロンドンはイギリスやヨーロッパの中で最大の都市で、人口は約940万人(2020年)です。金融、商業、ファッション、娯楽、芸術、メディア、ヘルスケアなど広範囲にわたる分野において強い影響力があり、域内総生産は欧州最大です。ロンドンは世界で最も航空旅客数の多い都市です。

主な観光地

我が家はバッキンガム宮殿ウェストミンスター寺院国会議事堂ロンドン・アイセント・ポール大聖堂ロンドン塔タワー・ブリッジの順で歩いて観光しました。

我が家は子連れ旅行だったので大英博物館に行かなかったのですが、大英博物館に行く場合にはロンドン・アイ→大英博物館→セント・ポール大聖堂の順で観光するとスムーズです。

バッキンガム宮殿

バッキンガム宮殿は、1703年にバッキンガム公の私邸として建てられたものを1762年に王室が買い上げて改装した宮殿です。現在はエリザベス女王の住まいとなっています。

こんなイマイチな写真しか残っていませんでした…。女王がスコットランドを訪れる8月から9月の間にだけ一般入場可能となっているそうです。
バッキンガム宮殿の周囲にはグリーンパークやハイド・パークがあって、お散歩するのにとても良い綺麗な庭園がありました。
グリーンパークには大きなリスが沢山いました。オランダにいたリスは小さくてすばしっこくて、近づくとすぐに逃げてしまっていたのですが、グリーンパークで見たリスは大きくて全然逃げようとしなかったので、人間に慣れているなぁと思いました。子どもは喜んで見ていました。

ウェストミンスター寺院

ウェストミンスター寺院は11世紀にエドワード懺悔王が建設し、その約200年後にヘンリー3世が大改装を行いゴシック様式の教会になりました。1066年にノルマン人がイングランド王国を征服して以来、歴代の王の戴冠式がウェストミンスター寺院で行われて来ました。

ウェストミンスター寺院はイギリス国教会の教会です。「イギリス王室の菩提寺」と言われています。

国会議事堂

国会議事堂の正式名はウェストミンスター宮殿で、現在はイギリス議会が議事堂として使用しています。11世紀にエドワード懺悔王が建設し、ウィリアム1世の治世の頃から1529年に火災が発生するまでは王の宮殿として機能して来ました。1295年に開催された模範議会もこのウェストミンスター宮殿で開かれました。1834年にも大火災が発生して、ウェストミンスター・ホールとジュエル・タワー、聖スティーヴン礼拝堂の地下室、回廊のみが焼失を免れました。その後ゴシック・リヴァイヴァル様式で再建され、貴族院議事堂は1847年に、庶民院議事堂は1852年に、時計台ビッグ・ベンは1859年に完成しました。

ロンドンの象徴、ビッグ・ベン。イギリスの議会制度の歴史は古いですね。

ロンドン・アイ

テムズ河沿いに建つ世界最大の大観覧車で、高さが135mもあります。

セント・ポール大聖堂

現在セント・ポール大聖堂が立っている場所には604年から教会が建っていましたが、幾度も落雷による火災に遭い、1666年のロンドン大火で完全に焼失してしまいました。その後、チャールズ2世の勅命で1675年から35年の歳月をかけて現在の大聖堂が建設されました。セント・ポール大聖堂は市民の大聖堂として古くからロンドン市民に親しまれて来ました。

セント・ポール大聖堂とロンドン・アイです。

ロンドン塔

イングランド王国を征服したノルマン人のウィリアム1世が1078年外敵から守るための要塞を建設するように命じ、約20年でロンドン塔のホワイト・タワーが完成しました。王室の宮殿、造幣所や天文台、王立動物園、牢獄及び処刑場として使われて来ました。

みどり
12歳だったエドワード5世とその弟が暗殺されたブラディ・タワー、ヘンリー8世の2番目の妃アン・ブーリンが処刑されたタワー・グリーンなど、恐ろしい歴史が沢山ある場所なので、怖い話が苦手な私は素早く通り過ぎました。

タワー・ブリッジ

ロンドンのシンボルとして、世界で最も有名な橋です。上がガラス張りの歩道橋になっていて、下が跳ね橋になった二重橋です。1894年に完成しました。

「ロンドン橋落ちた」を歌いながらロンドン橋を渡りました。ロンドン橋の東側にタワー・ブリッジがあります。タワー・ブリッジのガラス張りの歩道橋も渡りました。

まとめ

ロンドンの町を観光している時、地下鉄の構内でロック音楽を演奏している人に出会いました。ヨーロッパの他の町でクラシック音楽を演奏している人には沢山出会いましたが、ロック音楽を演奏している人はこの時初めて見たので、さすがUKロックのイギリスだと思いました。イギリスの歴史を勉強して、U2が歌う北アイルランド紛争についての理解が深まってとても良かったです。私も夫もBeatlesもOasisも大好きだから、イギリスも大好きです。

それから、ロンドンの地下鉄構内では結構バリアフリー化されていない箇所があって、その度に階段でベビーカーを持ち上げていました。その時、3か所で全て別の黒人の方が声を掛けてくださって、助けてくださいました。とても優しそうな若い素敵な黒人の女性の方が「Have a lovely day!」と言ってくださったのが忘れられません。ロンドンの黒人の方は親切な方が多い!という感想を抱きました。ロンドンは多民族な大都市でした。

読んでくださり有難うございました。

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