今回は、ハンガリーのブダペストの旅について綴らせていただきます。
飛行機でブダペスト空港へ
我が家は飛行機でブダペスト空港(リスト・フェレンツ国際空港)まで行き、空港からタクシーでブダペスト市内まで行きました。ブダペスト空港からブダペスト市内までは約25㎞です。なおブダペスト空港から30分毎に発車している100E系統のバスに乗って市内中心部の Deák Ferenc tér M(終点)まで行くのが一番便利でお値打ちなようです。
観光にまつわるハンガリーの歴史概要
ハンガリー王国成立
9世紀ごろ、現在のロシア西部にあるウラル山脈周辺の遊牧民だったマジャール人が西側に移動を始めました。しかし、955年にキリスト教国の東フランク王国のオットー1世(962年にオットー1世は神聖ローマ帝国の初代皇帝として戴冠)により撃退され、マジャール人は現在のハンガリーの草原地帯に定住することになりました。
そのマジャール人の大首長ヴァイクは985年にキリスト教の洗礼を受け、「イシュトバーン」という洗礼名を授けられました。1000年、イシュトバーンはローマ教皇からハンガリー国王の王冠を授けられ、ハンガリー王国が成立しました。
ブダに王宮が建てられ、ブダが首都になる
13世紀、チンギス=ハンが創建したモンゴル帝国はユーラシア大陸のほぼ全域を支配していて、1274年には日本にも襲来しました(元寇)。ハンガリー国王のベーラ4世はモンゴル人の侵入を防ぐため、街を囲む城壁を補強し、ブダの丘の上に王宮を建てました。1241年、モンゴル帝国はポーランド王国に侵攻し、ポーランド王国と神聖ローマ帝国(ドイツ)の連合軍を破りました。しかし、翌年にモンゴル帝国はハンガリー平原から引き揚げたため、ハンガリー王国は占領されることはありませんでした。1361年、ブダはハンガリー王国の首都になりました。
ハンガリー王国の全盛期
14世紀初めにトルコで建国されたオスマン帝国は、1453年にはビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落し、ビザンツ帝国は滅亡しました。キリスト教国のビザンツ帝国がイスラム教国のオスマン帝国によって滅ぼされたことで、オスマン帝国はヨーロッパ全体の脅威となりました。
それと同じ頃、1438年から神聖ローマ帝国はハプスブルク朝となっていて、ハンガリー王国はオスマン帝国とハプスブルク朝の両国と対抗状態にありました。両国に対抗するため、ハンガリー王のマーチャーシュ1世は中央集権化を進めて国土を拡大し、また、ハンガリー最初の大学や大きな図書館(バチカン図書館に次ぐ規模)を設立するなどしてルネサンス文化を奨励しました。マーチャーシュ1世が統治していた頃、ハンガリー王国は全盛期を迎えました。
オスマン帝国に敗北→ハプルブルク領へ
しかし、1526年にはオスマン帝国がハンガリー王国に侵入してきて、ハンガリー王国は敗れました。その後ハンガリー王国はオスマン帝国とハプスブルク領と東ハンガリー王国の3つに分割されました。
1687年、オーストリア(ハプスブルク家)は他のキリスト教国の支援を受け、ハンガリーをオスマン帝国から奪還しました。その後、ハンガリーはオーストリア(ハプスブルク家)の領土となりました。
ハンガリー、オーストリアによる支配続く
1848年、オーストリア帝国の支配に対してハンガリー独立運動が起こりました。しかし独立運動は失敗しました。その後、1867年にオーストリアはプロイセン(ドイツ)に敗北し、ハンガリーは形式的に独立を認められて独自の議会も設置されましたが、オーストリア=ハンガリー帝国となり、ハンガリーはオーストリアに事実上支配される状態が続きました。
ハンガリー完全独立
1914年から1918年の間、第一次世界大戦が起こりました。そして、1918年、オーストリア=ハンガリー帝国は敗戦したことによりオーストリア共和国、ハンガリー共和国とそれぞれ独立国となりました。
ブダペストの観光
ブダペスト基本情報
かつてハンガリー王国の頃にはドナウ川を挟んで西側にブダ、東側にペストという町がありました。ブダはハンガリー王国の政治的中心地で、ペストは商業地として発展していました。1873年にブダとペストは合併し、ブダペストになりました。
現在の首都ブタペストには約175万人が住んでおり、東・中央ヨーロッパでもっとも大きな都市の1つです。民族構成は97.7%がハンガリー人(マジャール人)で、言語はハンガリー語が使われています。通貨はFt(フォリント)が使われています。
主な観光地
ドナウ川の周辺を順番に巡りめぐりました。地図のドナウ川より左側がブダで、右側がペストです。主な観光地は全て徒歩圏内にあります。
ブダペストに着いた日に、ペスト側の聖イシュトヴァーン大聖堂→鎖橋を渡って、ブダ側の小高いところにあるマーチャーシュ教会→漁夫の砦→王宮(ブダ城)の順で観光しました。そして、一泊して翌日の朝一番、国会議事堂を訪れて、その後セムルー山鍾乳洞(Szemlő Mountain Cave)に行きました。
なお、今回の旅では行けなかったのですが、ペスト側にセーチェニ温泉とヨーロッパ最大のシナゴーグであるドハーニ街のシナゴーグがあります。
↓1日目に観光した場所
↓2日目に観光した場所
聖イシュトヴァーン大聖堂
ブダペスト最大の大聖堂です。キリスト教の洗礼を受けた初代ハンガリー王の聖イシュトヴァーンの右手のミイラが保管されています。1851年から1905年にかけて建設されました。高さ96mのドームの周囲は展望台になっていて、エレベーターまたは階段で上がることができます。
セーチェニ鎖橋
ドナウ川によって分かれていたブダとペストを最初に繋いだ橋です。貴族で政治家であったセーチェニ・イシュトヴァーン伯爵が建設を提唱し、1849年に完成されました。
マーチャーシュ教会
マーチャーシュ教会は13世紀にブダに王宮を建てたベーラ4世の命で建てられました。その後、1479年にマーチャーシュ1世が南の尖塔の増築を命じ、ゴシック様式で立て直されました。それにちなんでマーチャーシュ教会と呼ばれています。その後、オスマン帝国に支配されている間はイスラム寺院に改装され、モスクとして使用されました。その後は18世紀にバロック様式に、19世紀後半にネオ・ゴシック様式に改装されました。
漁夫の砦
1895年から1902年にかけて建国千年祭の市街美化計画の一環として建設されました。
王宮
ベーラ4世によって建てられました。代々王の居住地として使用され、政治と文化の中心地でした。現在は国立美術館、ブダペスト歴史博物館、国立セーチェニ図書館として使われています。
国会議事堂
1867年にオーストリア帝国がプロイセンに敗れたことにより、ハンガリーは形式的にオーストリア帝国からの独立を認められました。1880年に国会は独立を示すために国会議事堂を建設することを決議し、1885年に建設が始まり、1902年に完成しました。聖イシュトヴァーンの戴冠以来950年間受け継がれてきた王冠も展示されています。
セムルー山鍾乳洞
国会議事堂に行った後、市バスに乗ってブダペスト郊外の山にあるセムルー山鍾乳洞に行きました。
ハンガリーの伝統料理
ハンガリーの伝統料理はパプリカパウダーやハーブが沢山使われます。「パプリカ」はハンガリー語です。
まとめ
ハンガリー王国は15世紀まで大国だったので、当時から首都として栄えてきたブダペストは東欧諸国の中で存在感のある重要な町であることが分かりました。地理的にオスマン帝国や神聖ローマ帝国(オーストリア帝国)と隣り合っていたため、独立状態を保つのが難しかったことも調べて分かりました。国会議事堂の豪華さは自国民の誇りを象徴しているものだと感じました。
ハンガリー人(マジャール人)は、もともとウラル山脈の方から西に移動して来た人々が祖先です。そのため、モンゴル系の血が入っている日本人や中国人、朝鮮人と同じように赤ちゃんの時に蒙古斑があるそうです。また、日本人と同じようにお辞儀の文化があるそうです。
興味を持っていただけたら、ぜひハンガリーを訪れてみてください。
読んでくださり有難うございました。