モンドリアン展に行ったので、その感想について

先日、モンドリアン展に行ってモンドリアンの絵画を観て来ました。モンドリアンのことはあまり知らなかったので、モンドリアンについての調べたことと、私の感想を綴らせていただきます。

モンドリアンの人生と年代毎の絵画について

モンドリアーン、オランダで生誕〜青年期

1872年、ピーテル・コルネリス・モンドリアーン(Pieter Cornelis Mondriaan)はオランダのユトレヒト州の第2の都市、アメルスフォールトで生まれました。19世紀末のオランダの経済は厳しい状況で、多くの人々が宗教に救いを求めていました。モンドリアーンの父親は小学校の校長先生でしたが、プロテスタント教会への活動に没頭しており教会活動で家を空けることが多く、母親は病気がちだったため、子どもの頃のモンドリアーンにとって家庭は暗く、良い思い出はあまりなかったようです。そのせいか、モンドリアーンもモンドリアーンの姉も生涯独身で過ごしました。結婚によって精神の均衡を失うことを恐れていたようです。

みどり
モンドリアーン、精神の均衡を保つということを重きを置いていたのね。絵画の中にも調和や均衡に重きを置いているのは、幼少期の家庭環境の影響もあるのかな?

14歳の頃から画家である叔父と父親の指導を受けて絵の勉強を始め、1892年(19歳)から1895年(22歳)までアムステルダムの国立造形芸術アカデミーで絵画を学びました。

1894年、「Irrigation Ditch, Bridge and Goat」、デン・ハーグ美術館

成人期以降、芸術家としての人生

風景画から抽象画へ

国立造形芸術アカデミーを卒業後は主に風景画を描いていたモンドリアーンでしたが、次第にパリの印象派やポスト印象主義の作品に影響され、より明るい色彩を用いて抽象画を描くようになっていきました。

みどり
20代〜30代の若い頃は絵画の賞を取ったり出来ず、芸術家として世間からあまり認められていなかったようです。
1900年、「Portrait of a girl with Flowers」、デン・ハーグ美術館
1906/1907年、「Summer Night」、デン・ハーグ美術館
1906年/1907年、「Mill in Moonlight」、デン・ハーグ美術館

1909年(37歳)、画家仲間のコルネリス・スポール、ヤン・フライテルスとともにアムステルダム市立美術館で展覧会を開き、初めて明るい色の点描的な筆致の作品を発表しました。この展覧会で発表した「Windmill in Sunlight」はオランダ国内でモンドリアーンを一挙に有名にしました。モンドリアーンは前衛画家の代表者となり、作品が次々に売れ始めました。しかし、その年に母が亡くなってしまいました。そして、新智学協会に入会しました。

みどり
新智学協会って何なのかしら?検索してみると、「神秘的直観によって神の啓示にふれようとする信仰・思想。」と書いてありました。今でいうスピリチュアルのようなものでしょうか。母の死がショックだったのでしょうね。
1908年、「Windmill in Sunlight」、デン・ハーグ美術館
みどり
「Mill in Moonlight」と「Mill in Sunlight」、同じ風車の絵なのに全然違う絵になっていますね!そして、モンドリアーンが後にこだわった赤と青と黄色と黒がしっかりと入っていますね。
1908年、「Portrait of o Girl」、デン・ハーグ美術館
みどり
1900年に描いた少女の絵と異なっています。赤と青と黄色がしっかりと使われていますね。モンドリアーンは色の三原色を実験のように使って描いていますね。

モンドリアンに名前を変える

1911年(39歳)、アムステルダムでフランスのキュビズム絵画が展示されました。モンドリアーンは深い感銘を受け、翌年パリへ移住しました。パリに来て、モンドリアーンは自分自身と自分の芸術、そして自分にふさわしい生活様式を見出しました。そして、父と同じ名前であるピーテル・コルネリス・モンドリアーン(Pieter Cornelis Mondriaan)という名前を捨てて、ピート・モンドリアン(Piet Mondrian)と名乗るようになりました。
1911年、「The Red Mill」、デン・ハーグ美術館

パリでキュビズムに影響を受ける

モンドリアンはパリでパブロ・ピカソジョルジュ・ブラックの作品を観て、彼らのキュビズムの理論に心酔するようになりました。そして、描く物の立体性と空間性を抑制し、平面的で幾何学的な形態にしようとしました。
1911-12年、「Still Life with Gingerpot Ⅱ」、ソロモン・R・グッゲンハイム美術館
みどり
パリではパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックの絵画のように灰色や褐色や黒を使った作品を描きました。
1914年、「Tableau III: Oval Composition」、アムステルダム国立美術館
みどり
いわゆるモンドリアンの絵の特徴が見られるようになって来ましたね!しかし、モンドリアンは「キュビズムが目指している抽象化は自分の目指しているものと何か違う!」と次第に思うようになりました。

『デ・スタイル』刊行、新造形主義を提唱

1914年(42歳)、父親が病気になり、パリからオランダに帰りました。その頃、第一次世界大戦が勃発したので、2週間ほどでまたパリに戻る予定でしたが、オランダで5年過ごすことになりました。この5年間でモンドリアンはテオ・ファン・ドゥースブルフと出会いました。ドゥースブルフは芸術家たちの「精神的共同体」を造ろうと提案し、活躍の核となる雑誌『デ・スタイル』を刊行しました。その共同体の出会いを通じて、モンドリアンは様々な画家や彫刻家、デザイナー、建築家、文筆家と知り合うことが出来ました。
みどり
オランダの世界遺産、「リートフェルトのシュレーダー邸」は『デ・スタイル』に参加していたヘリット・トーマス・リートフェルトが設計しました。リートフェルトは有名な「赤と青のいす」のデザインもしました。
赤と青の椅子」はモンドリアン展でも展示されていました。モンドリアンが提唱した芸術論「新造形主義」に賛同した建築家やデザイナーがデ・スタイル運動に参加しました。
世界遺産「リートフェルトのシュレーダー邸」。家が凄いというわけではなくて、芸術が建築や工業デザインに影響を与えたということや、現代のデザインの礎になっているところが評価されているのだと思います。
1905年、「Composition 10 in black and white」、クレラー・ミュラー美術館
1917年、「Composition in color B」、クレラー・ミュラー美術館
みどり
この辺りの作品から、線と色の三原色と無彩色を用いて、平面上に秩序と調和がある作品を描くようになりました。

ヨーロッパ脱出まで

1919年(47歳)、モンドリアンはフランスに戻り、幾何学的抽象芸術理論『新造形主義』を出版しました。この頃には、モンドリアンはピカソのキュビズムよりもはるかに過激で抽象的で現代的なものを描く画家になっていました

1921年、モンドリアンの父が亡くなりました。その年の終わりの作品から、下地は白に統一され、色彩は原色になりました。1920年年代の前半に、モンドリアンはアトリエを少しずつ『デ・スタイル』の仲間たちの唱えるインテリアのショールームのような形にしていきました。モンドリアンは、芸術と装飾とは区別がつけられないものだと確信していました。

1922年、「Composition with Blue, Yellow, Red, Black and Grey」、アムステルダム市立美術館
1930年、「Composition with Red, Blue, and Yellow」チューリッヒ美術館

1932年(60歳)、モンドリアンは60歳になりました。モンドリアンは重要な芸術家としてアムステルダム市立美術館で大展覧会が催されました。また、デン・ハーグの市立美術館に寄贈するための作品の注文を受けました。

1933年、「Lozenge Composition with Four Yellow Lines」、デン・ハーグ美術館、デンハーグ美術館に寄贈するために描かれた作品です。
みどり
これはもう絵画というかデザインなのではないかと私も思いました。それまでの絵画は宗教画や肖像画、風景画など時代を反映してきたけれど、モンドリアンは線と色の三原色と無彩色という絵を構成する素材だけを用いて描くことで、時代を超える普遍性のあるものを描こうとしたのかなと思いました。

1938年(66歳)、第二次世界大戦の戦火を逃れてパリからロンドンに移りました。

モンドリアン憧れの地、アメリカへ

1940年(68歳)、モンドリアンはアメリカに移り住みました。モンドリアンはずっと昔からアメリカに行きたいと思っていました。それは、1920年代半ば頃に、モンドリアンの作品をアメリカ人のコレクターが好んで買ってくれたからです。1941年(69歳)、『フォーチューン誌』が12人の芸術家を選び、作品の写真と、商業美術の世界での彼らの影響について特集を組みました。その最初の頁に、モンドリアンのコンポジションが掲載され、「彼はタイポグラフィーやレイアウト、建築、工業デザインに重要な影響を与えた」と記載されました。

モンドリアンはアメリカではじめてヴギヴギを聴きました。ヴギヴギはジャズの中で最もメロディー性の乏しい様式とされています。モンドリアンは彼の求めるものと同じような特徴を持つヴギヴギを聴いて興奮し、「Broadway Boogie Woogie」を制作しました。

みどり
ヴギヴギってこういう音楽なのね。確かに、モンドリアンのような音楽だと感じました。モンドリアンのコンポジションの絵を観ていると、黒い線の重なるところがチカチカと光って見えるのですが、それがヴギヴギのリズムカルな音楽のイメージに合うなぁと思いました。歴史を重んじるクラシカルなヨーロッパより、ジャズが似合うアメリカの方がモンドリアンに合っていたのでしょうね。
1937-42年、「Composition with Red, Yellow and Blue」、テート美術館
みどり
アメリカに移ってからの作品は線が増えましたね。
1942年/1943年、「Broadway Boogie woogie」、ニューヨーク近代美術館

1944年(72歳)、モンドリアンは肺炎で亡くなりました。

モンドリアン展を訪れた感想とまとめ

オランダに住んでいた頃に、私はハーグ美術館に行っていませんでした。現代美術にそんなに興味が湧いていなかったからだと思います。

先日、日本でモンドリアン展があったので、オランダで観なかったモンドリアンの作品をゆっくり鑑賞することが出来ました。私が知っているモンドリアンの黒い線と赤・黄色・青の絵だけではなくて、風景画なども観ることが出来て、そして時代を追って絵画を観ていくことで、興味を持つことが出来ました。

私はこの作品にハッと息を飲み、思わず「すごい!」と言葉が出ました。私にとっては懐かしい風車の絵です。大きな作品で、すごくリアルで迫力のある絵でした。この作品に出会えたことが本当に良かったです。

モンドリアンのコンポジションの作品群が面白いと思うのは、モンドリアンの作品には奥行きがないところです。私は部屋の壁に風景画や写真を飾っています。壁に風景画や写真を貼ると、そこに窓があるように見えます。私は、風景画や写真を貼ることで、部屋に広がりを持たせようとしています。

しかし、モンドリアンは絵画の奥行きを徹底的に排除しようとしました。絵が完全に平面です。そういう意味で、モンドリアンの作品はそれまでの絵画の作品との違いがあると思いました。

モンドリアンのコンポジションは、本人が影響を受けたゴッホやピカソとも全然違うと感じました。ゴッホやピカソの作品は絵を観ていると情景や作者の感情や反戦への思いなど色々な思いが伝わって来ますが、モンドリアンの作品からは特に何も浮き上がってくる思いはありません。しかし、純粋にデザインを楽しむことが出来ると思いました。モンドリアンの言うように、純粋に音を楽しめるジャズに似ていると思いました。

モンドリアンの目指した線と色の三原色と無彩色のデザインは、普遍的で自由度が高いものだと思います。だから、今でも通用するデザインで、企業のロゴなどにも使われています。

モンドリアンは現代美術を代表している画家なのだと改めて理解することが出来ました。

なお、今回の記事はこの本を参考にさせていただきました。モンドリアンのことをもっと詳しく知りたい方にお勧めします。

読んでくださり有難うございました。

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