子連れ旅行、ベルギーの歴史とブリュッセルの旅について

今回はベルギーのブリュッセルへの子連れ旅行について綴らせていただきます。

ベルギーのブリュッセルへ

ベルギーのブリュッセルへは、オランダのアムステルダムから国際高速列車タリスで約2時間40分〜50分、車でも約2時間30分(約200㎞)で行くことが出来ます。ブリュッセル南駅にはユーロスターやTGV、タリスなどの高速列車が発着しているので、ブリュッセルからロンドンまで約2時間15分〜30分、ドイツのケルンへ約2時間20分、フランスのパリへは約1時間30分で行くことが出来ます。

みどり
ブリュッセルにはEUの本部があり、「ヨーロッパの首都」と言われています。フランスやドイツ、イギリスへのアクセスも良くて、地理的にも欧州の中心地ですね。

ベルギーの大まかな歴史

ローマ帝国→西ローマ帝国→フランク王国

ローマ帝国の時代(紀元後27年〜395年)は、ライン川を境にして南側はローマ帝国領だったので、ベルギーはローマ帝国領でした。4世紀後半にアジアからフン人がヨーロッパに侵入してくると、東ヨーロッパに住んでいたゲルマン人が西ヨーロッパに大移動を始めてローマ帝国に移住して来ました。それによりローマ帝国内で混乱が生じ、395年にローマ帝国は西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂しました。西ローマ帝国にはいくつかのゲルマン人の王国が誕生し、481年にフランク人のクローヴィスが初代国王となり、フランク王国が出来ました。クローヴィスはローマ・カトリック教に改宗し、キリスト教を保護したため、この地のゲルマン人にキリスト教が広まりました。フランク王国は次第に領土を広げ、8世紀のカール大帝(在位768年‐814年)の頃には現在のイタリア、オーストリア、オランダ、スロベニア、スイス、ドイツ、フランス、ベルギー、ルクセンブルクにまたがる広域を支配していました。

西フランク王国→フランス王国フランドル伯領

9世紀半ば頃から、スカンジナビア半島に住んでいたノルマン人のヴァイキングがヨーロッパ各地に侵入して来ました。それにより843年、フランク王国は西フランク王国(現在のフランスの起源)、中部フランク王国(現在のイタリアの起源)、東フランク王国(現在のドイツの起源)に分裂しました。

現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクの3国の地域は10世紀以降、北部は神聖ローマ帝国(東フランク王国は962年に神聖ローマ帝国になりました)南部はフランス王国領のフランドル伯領となっていました。フランドル地方はブリュッセルを中心に毛織物産業で栄えていました。

ブルゴーニュ公国領

西フランク王国は10世紀末にユーグ=カペー(在位987‐996)がフランス国王となってからフランス王国となりました。1328年にカペー朝が断絶すると、フランス=イギリス間の百年戦争が始まりました。その最中、フランス王国はカペー朝からヴァロワ朝になり、1361年カペー系ブルゴーニュ公家が断絶すると、フランス王国ヴァロワ朝第2代国王ジャン2世(在位1350‐1364)は末子のフィリップ(在位1363年 ー1404年)をブルゴーニュ公にしました。フィリップは、フランドル伯ルイ2世の娘マルグリット3世マルグリット・ド・マルと結婚したことにより、フランドル伯領はブルゴーニュ公国領となりました。ブルゴーニュ公は次第にネーデルラント全域に支配を広げていきました。

ハプスブルク家領

ヴァロワ=ブルゴーニュ家の事実上最後のブルゴーニュ公のシャルル(在位1467‐1477)はフランス王国からの独立を図り、ルイ11世と戦いましたが戦士しました。シャルルは男子の跡継ぎがいなかったため、娘のマリーが結婚した相手であるハプスブルク家の大公マクシミリアン1世(ブルゴーニュ公在位1477年 – 1482年、神聖ローマ帝国皇帝在位1508年 – 1519年)が1477年にネーデルラント17州を含むブルゴーニュ公領を継承しました。1508年、マクシミリアン1世はローマ教皇による戴冠によらず自ら神聖ローマ帝国の皇帝に即位しました。

マクシミリアン1世は1496年、息子のフィリップをスペインのカスティリャ王国の女王フアナと結婚させて、その間に生まれた長男カールがスペインを相続しました。また、フィリップとフアナの間に生まれた次男フェルディナントは1521年にボヘミア=ハンガリー王国の王女アンナと結婚し、ハンガリーとボヘミアを一族の手中に収めました。

2019年に『ハプスブルク展』が開催されていたので観にきました。「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」というハプスブルク家の言葉通り、ハプスブルク家は婚姻によって領土を拡大して来ました。
みどり
ハプスブルク家の家系図って本当に色々とすごい。

ネーデルラント北部7州がオランダに、南部10州が後のベルギーに

1492年、スペインのカスティリャ王国女王イサベルの支援を受けたコロンブスがアメリカ大陸を発見し、それ以降の大航海時代の航路が大西洋岸に移ると、アントワープが国際的な商業港として栄えていきました。16世紀、ネーデルラント北部7州の民族はゲルマン系で言語はドイツ語系、宗教は主にカルヴァン派で海運と商業が盛んでした。南部10州の民族はラテン系で言語はフランス語系、宗教は主にカトリック、農牧業と毛織物工業が盛んでした。ネーデルラントはスペイン=ハプスブルク家によって支配されており、スペイン王フェリペ2世(在位1556~98)の対ネーデルラント政策はカルバン派教徒の弾圧、自治権の抑制、重税を課していました。それに反発してオランダ独立戦争が起き、1579年にネーデルラント北部7州はユトレヒト同盟を結成し、1581年にオラニエ公ウィレムを総督としてネーデルラント連邦共和国を宣言しました。しかし、南部10はスペイン領として残りました。オランダが独立すると、国際商業の中心はアントワープからアムステルダムに移りました。

みどり
ネーデルラント南部10州がベルギーになっていったのね。

ネーデルラント南部10州、オーストリア=ハプスブルク家の領土に

スペイン=ハプスブルク家の最後の王カルロス2世(在位1665‐1700)は、病弱で知的障害があり、王位継承者がいませんでした。1700年にカルロス2世が亡くなり、スペイン=ハプスブルク家が断絶すると、フランス王国ブルボン朝の国王ルイ14世が孫のフェリペをスペイン王としたことによって、1701年から1713年にかけてスペイン継承戦争が起こりました。(スペイン+フランスVSオーストリア+イギリス+プロイセン+オランダ)結果、1713年に締結されたユトレヒト条約によってルイ14世の孫フェリペがスペイン国王として即位することは認められましたが、ネーデルラント、ミラノ、ナポリ、サルデーニャはオーストリア=ハプスブルク家、ジブラルタルとメノルカ島はイギリス領へ、アメリカ大陸のニューファンドランド島とアカディアとハドソン湾地方がフランス領からイギリス領となり、スペインは没落し、イギリスは北アメリカ大陸の植民地を得てイギリス優位の時代に入りました。

フランス革命でフランス軍の領土になり、その後オランダに併合される

ベルギーはスペイン継承戦争後、オーストリア=ハプスブルク家の領土になっていましたが、1792年にフランス革命軍がベルギーに侵攻し、皇帝ナポレオン(在位1804‐1814、1815)帝政の間、フランスに占領されました。ナポレオンが退位すると、1814年にヨーロッパの秩序再建と領土分割を目指して全ヨーロッパ各国代表が集まりウィーン会議が開かれ、1815年に合意されたウィーン議定書によって、ベルギーはオランダ立憲王国に併合されました。

ベルギー独立して立憲君主制へ、永世中立国になる

オランダ立憲王国に併合されたベルギーは公用語オランダ語の強制などに不満を募らせました。1830年、ナポレオン退位後に王政復古していたフランスで市民が絶対王政を倒した七月革命が起こると、ベルギー独立運動が起こりました。1830年9月、オランダはブリュッセルに軍隊を派遣し、オランダとベルギー間の戦闘が繰り広げられ、同年10月にベルギーは独立を宣言し、立憲君主制を採用することになりました。現在のドイツのザクセン地方の領主ザクセン・コーブルグ・ゴータ公爵家の第8子レオポルドが1831年にブリュッセルにて宣誓を行い、初代ベルギー国王レオポルド1世として即位しました。

ベルギーは独立以前から高い工業能力を有していました。そのベルギーをフランスとドイツが侵攻することを恐れたイギリスはベルギーの永世中立国化を狙い、1839年にイギリス、フランス、プロイセン、オーストリア、ロシアの5カ国でベルギーを永世中立国とする条約が締結され、オランダも承認しました。

ブリュッセルの観光

ブリュッセルは19の基礎自治体で構成されていて、その1つのブリュッセル市には人口約17万人が住んでいます。永世中立国であるブリュッセルにはEU(ヨーロッパ連合)本部と関連機関、そしてNATO(北大西洋条約機構)の本部があり、ヨーロッパの政治の拠点都市となっています。ベルギーの公用語はオランダ語とフランス語とドイツ語で、ブリュッセルは主にフランス語が使われています。

私はグラン・プラス周辺の小便小僧市庁舎グラン・プラス王の家小便少女世界最古のアーケードであるギャルリー・サンテュベールを観て歩きました。全て徒歩圏にあります。

グラン・プラス

グラン・プラスは町の中心にある大広場です。広場には市庁舎と王の家が向かい合って建っています。壮麗な歴史的建造物に囲まれていて、ヴィクトル・ユゴーが「世界で最も美しい広場」と賞賛したことで有名で、世界遺産にも登録されています。市庁舎と王の家の他にはフランドル商人(ギルド)の商館であるギルドハウスが囲んでいます。

朝日を浴びるグラン・プラスです。とても広くて、美しい市庁舎や王の家、ギルドハウスに囲まれています。グランプラスにはゴディバなどの王室ご用達のチョコレート屋さんが沢山あります。
ゴディバ本店でいちごのチョコ掛けを食べてみました。美味しかったです!
クリスマスに行った頃です。ライトアップされていてとても綺麗でした。

市庁舎

グラン・プラスの真ん前に市庁舎が建っています。市庁舎は1402年から1455年の間に建造されました。中央のゴシック様式の塔は96mもあります。ガイドによる内部見学ツアーがあり、豪華な内装の会議室などを観覧することが出来ます。

お昼に見た市庁舎の様子。ゴシックフランボワイアン様式というそうです。フランボワイヤン様式は、15世紀から16世紀にかけての後期フランス・ゴシックの様式で、窓等の装飾が火炎の形状に似るところから(フランボアイヤン(炎の燃え上がるような)様式というらしいです。
夜の姿が本当に美しかったです。グラン・プラスのツルツルの黒い石のタイルに黄色いライトが映って、グラン・プラスが黄金に輝いていました。
うっとりする美しさで、しばらく佇んでいました。夜、私一人で歩いていましたが、特に治安も悪くなかったです。

王の家

市庁舎の前に建っています。実際に王様が住んだことはなく、もともとは公爵家の館でした。16世紀前半にカール5世の名によって後期ゴシック様式で建てられた館がありましたが、1695年に砲撃に遭って無くなりました。それが1895年に忠実に復元され、現在の姿になっています。現在は市立博物館として使われていて、3階には日本を含む世界各国から贈られた小便小僧の衣装が陳列されています。

グラン・プラスはギルドハウスに囲まれていまいた。「ギルド」というのは、中世ヨーロッパの都市で結成された同業者組合です。

小便小僧

「小便小僧」は少年が放尿している姿を模した像です。1619年にフラマン人彫刻家・ジェローム・デュケノワにより製作されました。現在設置されている像はレプリカで、本物の像は王の家にある市立博物館に展示されています。

あっけない像ですが、観光名所です。
写真では分かりにくいのですが、小便小僧の近くに小便少女の像もありました。小便少女は1987年にガン・エイズ撲滅運動を目的に建てられました。
あまり関係ないのですが、ノルウェーのベルゲンで見た噴水の少年像ももやっとしました。
水を掛けられて嫌がっている?寒い中直立不動で、なんとも言えない少年像。

ギャルリー・サンテュベール

ギャルリー・サンテュベールはヨーロッパ最古のショッピングアーケードで、1847年に公開されました。天井が窓ガラスで作られていて、アール・ヌーヴォー様式(曲線的で花や植物をモチーフとしたエレガントな装飾が特徴)の装飾が美しいアーケード街です。

みどり
19世紀、イギリスで産業革命が起こり、世の中に安価で大量生産されたものが出回ったため、その反動で人々は芸術性や独自性が高いものを求めるようになりました。それで、鉄やガラスなどの当時の新素材を用いて芸術性の高いものを生み出そうとするアールヌーヴォー(Art+新しいの意味のNouveau)という新芸術運動が19世紀末から20世紀初めにかけて起こりました。ベルギーのブリュッセルとフランスのパリはアールヌーヴォーの中心地でした。
ベルギー王室御用達のチョコレート屋さんや鞄屋さんなどがありました。19世紀後半、ベルギー国王が議会や世論の反対を押し切ってアフリカの植民地獲得を進め、コンゴを植民地にしました。植民地だったコンゴから上質なカカオを手に入れることが出来たので、ベルギーのチョコレートが有名になりました。ちなみに、第一次世界大戦後にルワンダも植民地にしました。コンゴとルワンダは1960年頃に独立しました。

その他、ベルギー町歩き

町の壁に漫画「タンタン」の絵が描いてありました。ギャルリー・サンテュベールから550m(約7分)ほど歩いたところに「ベルギー漫画センター」もあります。
雰囲気があって素敵な町です。
ベルギー名物、ムール貝の白ワイン蒸しです。ベルギーで流通しているムール貝はオランダのゼーラント(Zeeland)で水揚げされたものが主だそうです。セロリや玉ねぎ、ニンニクなどが入っていて美味しかったです。私も同じような黒い鍋を購入して、よくスーパーでムール貝を買ってワイン蒸しにしました。スーパーでムール貝をとても安く買うことが出来ました。
フラリと入ったお店で彩り豊かで美味しいお料理を食べることが出来ました。ベルギーは美食の町で有名です。

まとめ

質実剛健なオランダの名物料理はニシンの塩漬けの「ハーリング」やコロッケ「クロケット」が有名です。オランダ人は食事に拘らない人が多いので、オランダでは下調べせずに入ったお店で美味しいものを食べることはなかなか難しいです。

しかし、ベルギーには美味しいベルギー料理やベルギービール、チョコレート、ワッフルなどがあって、ブリュッセルは美食の街としても有名です。ブリュッセルでは店員さんがフランス語で話してくださって、人の雰囲気もなんとなく物腰柔らかだなぁと感じました。

ブリュッセルに行った際に宿泊した小さなアットホームなホテルのオーナーの方もとても親切で、朝からとても美味しい朝食を用意してくださいました。「このクロワッサンはパリのクロワッサンのようでしょう!」と言っていました。とても親切な方で、家族の集合写真を撮ってくださったり優しく抱擁してくださったり、温かい方でした。

オランダのアムステルダムからベルギーのブリュッセルまで車で約3時間の距離ですが、人や言語、文化が全く異なることを旅を通して実感することが出来ました。

読んでくださり有難うございました。

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