今回は、『公教育をイチから考えよう』という本を読みながら、オランダと日本の公教育について考えてみようと思います。
そもそも公教育は何のため?
「自由の相互承認」の原理
この本の中では、まず公教育は何のためのものなのかということについて苫野さんが書かれています。
人間は「生きたいように生きたい」という「自由」への欲望を持っているため、その欲望がぶつかり合い、大規模な戦争が繰り返されてきました。その「自由」への欲望を集結させるために、「自由の相互承認」の原理をルソーやヘーゲルなどの哲学者が主張しました。
お互いの「自由」をただ素朴に主張し命を奪い合うのでも、これを絶対権力のもとに押さえつけて支配するのでもなく、お互いにお互いが「自由」な存在であることを認め合い、そしてそのことをルール(法)として定めること。これだけが、人類が自由かつ平和に共生できる道である。ルソーやヘーゲルはそう主張したのです。
リヒテルズ直子×苫野一徳著『公教育をイチから考えよう』より引用
「自由の相互承認」の原理が機能する社会を作る、法と教育と福祉
「自由の相互承認」の原理に基づいた社会を作っていくには、法と教育と福祉の3つの条件が必要であると、著書の苫野さんは述べています。
まず第一条件として、法によって「自由」がルールとして定められている必要があります。しかし、法で定められたルールを守らせるための「力」がなければ、法が社会に浸透しません。その「力」が公教育であると述べられています。
つまり公教育は、一人ひとりが「自由」に生きられるための”力”を、必ず全員に保障するという使命をもって登場したものなのです。
生まれや育ちに関係なく、すべての子どもが等しく教育を受ける権利をもっているということ、そしてまた、誰もが必ず、この社会で「自由」に生きるための<教養=力能>を一定以上獲得するということ。これが、公教育という制度を通した「自由の相互承認」の実質化です。
リヒテルズ直子×苫野一徳著『公教育をイチから考えよう』より引用
このように「自由の相互承認」の原理を法と公教育を通して実質化していくのですが、それだけでは不十分だと述べられています。子どもに障害があったり、経済的な困難を抱えている家庭などがあるので、そのため福祉が重要な条件になると述べられています。
①現代において「自由」に生きるための”力”は何か?
②その”力”はどうすれば育めるのか?
③「自由の相互承認」の”感度”はどうすれば育めるのか?
④「一般福祉」を実現するための教育行政はどうあればよいか?リヒテルズ直子×苫野一徳著『公教育をイチから考えよう』より引用
この本では、この①〜④の4つの問を、現代のオランダ教育の実践を参考にして具体的に答えを導かれています。
オランダの教育
教育の自由
オランダには学区がありません。自宅から自転車で10分程度の範囲に、宗教的・非宗教的な価値観に基づく教育理念や教育方法の異なる多数の学校が存在しています。この学校選択の自由を保障するオランダの「教育の自由」の原則は、1917年の憲法改正によって確立しました。
市民は、宗教的・非宗教的な価値観=教育理念に基づいて(「理念の自由」)、一定数(憲法改正当初は200人、現在は地域の人口密度に比して決められた定数)の生徒を集めれば、教会や(協会・財団などの)市民団体が学校を設立でき(「設立の自由」)、それぞれみずからの教育理念に基づいて、学級編成、使用する教材、時間割などのを選択し(「方法の自由」)、公立校とまったく同じ公教育費を国から受給して運営することができます。
リヒテルズ直子×苫野一徳著『公教育をイチから考えよう』より引用
1960年代末以降、個別の子どもの発達を重視する制度へとなっていき、モンテッソーリ、ダルトン、イエナプラン、フレネ、シュタイナーなどのオルタナティブ教育の学校も増えていきました。こうしたオルタナティブ教育をしている公立校もあり、現在では私立校と公立校の比率は初等教育も中等教育もほぼ7:3で私立校が多数となっています。
教員の自由裁量権
国が公表している人間形成の目標に沿って、各学校が創意工夫しながら各生徒に目標を達成させるための教育をみずからデザインするゆとりが保障されていることも、学校選択を意味のあるものにしています。つまり、各学校の教職員チーム、そして一人ひとりの教員に、現場で子どもを指導する際、みずからの判断で教育方法を変えたり、教材を選んだりする自由裁量権が広く保障されているのです。
リヒテルズ直子×苫野一徳著『公教育をイチから考えよう』より引用
イエナプラン教育の起こり
オランダには「イエナプラン教育」というオルタナティブ教育があります。「イエナプラン教育」はもともとドイツのイエナ大学で発症したもので、1960年代になってオランダの教育界に紹介されました。
当時、多数の落ちこぼれ(留年)を生む画一教育の在り方に疑問を抱いていた教員や保護者、されには教育学者や教育行政官の注目を集めました。
1970年代以降、オルタナティブ教育への関心が高まる中で、イエナプラン校の数は飛躍的に増加し、1970年代の初等教育法の改革に大きな影響を与えました。現在オランダでは約200校(全国の小学校の約3%)のイエナプラン校があります。
ドイツでイエナプラン教育を創始したペーターセンは、次のような特徴のあるイエナプラン校を設立しました。
①時間割を科目単位で区切るのではなく、「(サークル)対話」「仕事(自立学習と協働学習)」「遊び」「催し」という四つの基本活動を循環させながら、子どもたちにの自然なバイオリズムに合わせてリズミックに展開すること
②学級のことを「ファミリーグループ」と呼び、それは異年齢の子どもたちからなるものであること
③教室を「リビングルーム(生活の場)」とみなし、学習者である子どもが安心と信頼を保障された場所とすること
④学校を、子どもたちを中心として、教育者である教員と保護者の三者からなる「生と学びの共同体」とみなした
リヒテルズ直子×苫野一徳著『公教育をイチから考えよう』より引用
『公教育をイチから考えよう』を読んだ感想
「結局は営利目的の教育産業」
日本の教育に息苦しさを感じる人は多いと思います。もう20年も昔の話になってしまいますが、私は大学生の頃、個別指導塾の講師のアルバイトをしていました。(今もその大手個別指導塾はあります。)
主に中学受験の子どもに勉強を教えていたのですが、志望校に通えなかった子どもがやる気がなくなって反抗的になってしまったり、低学年から塾通いしている子どもが「泣いた顔の絵」ばかりノートに書いていたりしていた姿を見て、子どもを毎日塾の狭いブースに閉じ込めて勉強させていることの弊害を感じたことがありました。
その塾の室長は親指と人差し指でお金のポーズを作って、「生徒はお客様ですから!」と朝礼で話すような人でした。本当に品性のかけらもない室長(私はセクハラ言われました)で、教育学なんて全く勉強してこなかった大人でした。
そんな塾に毎月何万円もお金を払って勉強をさせて、子どもも親も可哀そうだと思っていました。
それでも塾に通わせていたのは、学校の勉強に着いていけなかったからでしょうか?
地元の公立校の教育に不信感を抱いていたからでしょうか?
「学びの楽しさ、豊かな時間を奪われる子どもたち」
私は高校生の頃は理系クラスにいたので、受験科目に入れていなかった世界史をあまり勉強しませんでした。あまりというか、ほとんどした覚えがありません。
しかし、オランダに住んでいた頃に旅行をして他の国を見るにつれて、世界史に興味を持ち、勉強し直すようになりました。勉強してみるととても面白いと気付くことが出来ました。
世界史の知識って本当に大切だと思います。現代の政治や経済などにも繋がるものなので、現代を生きる上で必須の教養だと思います。
高校生の頃、世界史の授業を受けて面白くなかったのは何故なんだろう。教えている先生が面白さを伝えきれていなかったのかもしれないし、覚えるだけだったから退屈だったのかもしれません。そして、私自身の視野の狭さのせいで意欲が湧かなかったのかもしれません。結局視野が狭かったのも、教室で教科書を開いていただけだったからなのかもしれないと思います。
将来何になりたいのかも考えないで偏差値だけにらめっこして受験勉強して。そんな勉強をして学びの楽しさなんて感じるわけないので、この本の言っていることにとても共感しました。アクティブラーニングとリカレント教育という、今後求められている教育の在り方にも繋がるので、学びの楽しさを知ることは大切だと思います。
「いまだに画一一斉授業と学年制」
子どもの理解力には差があります。ピアジェが提唱した認知区分にも次のように差があります。
感覚運動的知能の段階 | 0〜2歳 | 新生児反射を基盤としている。感覚と運動の協応により、新しい場面に適応していく時期。 |
象徴的思考期(前概念的思考期) | 2〜4歳 | イメージ(表象)が生じ、言語によって象徴できるようにはなるが、まだ抽象化や一般化といった概念形成は困難である。 |
直感的思考期 | 4〜7、8歳 | 表象化や概念化は発達してきているが、推理や判断は知覚的直観に依存している。量や重さなどの判断は、見かけの大きさに左右されてしまう。 |
具体的操作期(具体的思考期) | 7、8歳〜11、12歳 | 具体的な事象であれば、論理的な操作による思考や推理が可能になり、量・数・時間・空間・因果関係などの概念が形成される。 |
形式的操作期(形式的思考期) | 11、12歳〜14、15歳 | 形式的な思考が可能となり、知能発達は一応完成の段階に達する。 |
知能発達の完成に4歳ほどの個人差があるのに、画一一斉授業が出来るわけないと私は思います。子ども達が自分で自分の分からないところを理解しようと勉強する方が、勉強の楽しさにも気付けると思うし、落ちこぼれてやる気をなくしてしまうことを防ぐことが出来ると思います。
まとめ
リヒテルズ直子さんと苫野一徳さんが書かれた『公教育をイチから考えよう』はとても興味深く面白い本でした。読んでない方にはぜひ読んでみていただきたいです。
苫野さんが冒頭で示していらっしゃるように、「自由の相互承認」がある暮らしやすい社会は法と教育と福祉が前提条件として存在することで成り立っています。そのため、公教育はとても大切なものです。
最近、SEKAI NO OWARIの「Habit」が流行っています。この歌のように黒板のある教室の風景、今も20年前も変わらないのですね。(海外では電子黒板が日本より普及してきているようです。文部科学省も電子黒板を押しているようなので、もっと普及していくと良いですね。日本はもっと教育への予算を増やしてください!)
「Habit」の歌詞のように陽キャ陰キャと分類して友達と付き合うのではなく、イエナプランのように先生も生徒もサークルになってじっくりと友達の話に耳を傾けて対話できる時間があると良いのだろうなと思います。