レオ=レオーニ展で知ったレオ=レオニの人生と彼の絵本から感じたことについて

私はレオ=レオニの『スイミー』がとても好きで、オランダで暮らしていた頃もよく我が子に読み聞かせしてあげていました。絵本の最後のページの作者紹介には、レオ=レオニが「オランダのアムステルダム生まれ」と書いてあるので、その頃からレオ=レオニのことや作品をもっと知りたいと思っていました。

帰国してからよく図書館に行き、レオ=レオニの他の絵本も借りました。『フレデリック』や『さかなはさかな』『コーネリアス』、『みどりのしっぽのねずみ‐かめんにとりつかれたねずみのはなし』、『マシューのゆめ‐えかきになったねずみのはなし』、『せかいいちおおきなうち‐りこうになったかたつむりのはなし』等を読んで、レオ=レオニの世界観や人間の本質的なことを訴えかけている内容に深く感銘を受けました。図書館に返してからも、ふとするとまた読みたくなって、その後も何度も何度もも借りて読みました。

前置きが長くなってしまいましたが、私は2019年に開催された『みんなのレオ・レオーニ』展に行くことが出来ました。その時に知ったレオ=レオニのことや、私が感じたことなどを綴らせていただきます。

レオ=レオニの大まかな人生

レオ=レオニ生誕

レオ=レオーニは1910年にオランダのアムステルダムでスペイン系のユダヤ人の父とオランダ人の母の間に生まれました。父はダイヤモンドの研磨の仕事をしていましたが、その後公認会計士の資格を取って国際的に活躍するビジネスマンになりました。母はオランダで生まれ、ベルギーで暮らしたりアメリカで暮らしたりして育ち、オペラ歌手として活躍していました。

芸術に囲まれて育った幼少期

母の影響で音楽は小さな頃からレオ=レオニにとって身近なものでした。また、レオ=レオニの叔父が芸術に造詣が深く、ヨーロッパ中を渡り歩いてシャガールなど様々な画家の作品を集めていました。

レオ=レオニが生まれた頃のアムステルダムではフレーベルモンテッソーリなどの革新的な幼児教育が行われており、実物を手で触ったり観察したりすることに重きを置かれていました。そこでレオ=レオニはオタマジャクシを捕まえたり、植物を観察したりして過ごしました。

多くの国々で過ごした青年期

1922年(12歳)から2年間、ベルギーにいる父方の祖父母の下で2年間過ごし、1924年(14歳)アメリカに移住しました。1925年(15歳)イタリアのジェノヴァに移住し、そこで将来の妻になるイタリア人のノーに出会いました。1928年(18歳)にスイスのチューリッヒ大学経済学部に入学し、1931年(21歳)ノーラと結婚しました。1933年(23歳)オランダに帰国し、その年にイタリアのミラノに移住しました。1935年(25歳)ジェノヴァ大学経済・商学部を卒業しました。

みどり
レオ=レオニは色々な国々で多感な青年期を過ごしたのですね。

戦争から逃れるためアメリカに亡命

レオ=レオニはミラノでデザイナーとして活躍していました。しかし、1939年(29歳)の時にイタリアでもユダヤ人に対する差別が激しくなり、妻と子と一緒にアメリカに亡命し、アメリカの広告代理店に入社しました

アーティストとしての活躍

1945年(35歳)アメリカ国籍を取得しました。1948年(38歳)広告代理店を退社して、ニューヨークでフリーランスのグラフィックデザイナーになって広告を手掛けたり、1949年(39歳)〜1962年(52歳)にかけて『フォーチューン』誌と『タイム』誌のアートディレクターを務めました。また、1950年(40歳)〜1955年(45歳)にかけてニューヨーク近代美術館、メトロポリタン美術館などの広告を手掛けました。

1957年(47歳)ノーラ夫人と3カ月インドに滞在し、1958年(48歳)アジアに7カ月滞在しました。

1960年(50歳)以降、様々な絵本や『スイミー』や『フレデリック』を基にしたアニメーション・フィルムを制作したりしました。『ひとあし ひとあし』や『スイミー』、『フレデリック』、『アレクサンダとぜんまいねずみ』がコルデコット賞次点作など賞を受賞し、絵本作家としても功績を認められました

1984年(74歳)にパーキンソン症を患い、1999年(89歳)イタリアのトスカーナで老衰のため亡くなりました。

主な絵本作品

1960年(50歳)『ひとあし ひとあし』
1961年(51歳)『はまべには いしが いっぱい』
1963年(53歳)『スイミー- ちいさな かしこい さかなの はなし』
1964年(54歳)『チコときんいろのつばさ』
1967年(57歳)『フレデリック‐ちょっとかわったねずみのはなし』
1968年(58歳)『あいうえおのき‐ちからをあわせたもじたちのはなし』
1968年(58歳)『せかい いち おおきな うち‐りこうになったかたつむりのはなし』
1969年(59歳)『アレクサンダとぜんまいねずみ‐ともだちをみつけたねずみのはなし』
1970年(60歳)『さかなはさかな』
1973年(63歳)『みどりのしっぽのねずみ‐かめんにとりつかれたねずみのはなし』
1975年(65歳)『ペツェッティーノ‐じぶんをみつけたぶぶんひんのはなし』
1979年(69歳)『おんがくねずみ ジェラルディン‐はじめておんがくをきいたねずみのはなし』
1982年(72歳)『うさぎをつくろう‐ほんものになったうさぎのはなし』
1983年(73歳)『コーネリアス‐たってあるいたわにのはなし』
1985年(75歳)『ぼくのだ!わたしのよ!‐3びきのけんかずきのかえるのはなし』
1988年(78歳)『6わのからす』
1991年(81歳)『マシューのゆめ‐えかきになったねずみのはなし』

私が好きなレオ=レオニの絵本と感想

『スイミー‐ちいさな かしこいさかなのはなし』

レオ=レオニはオランダで生まれてからベルギー、イタリア、スイス、アメリカと色々なところで生まれ育ってきました。きっと各地で色々なものを見て学んで多くのことを吸収してきたのだと思います。スイミーも広い海をたった一人で旅をします。そこでクラゲやエビ、見たこともない魚や昆布やワカメなどを見ているうちに好奇心が高まり視野が広がっていき、最後は他の魚たちを導く存在になっていきます。世界を旅しているスイミーの目は笑って描かれています。レオ=レオニはきっと絵本を読む子ども達にも広い世界を見て、多くのワクワクする経験を積んでほしいという思いで描いたのかなと思いました。

『さかなはさかな』

さかなとオタマジャクシが一緒に暮らしていました。オタマジャクシはカエルになって池を出て、外の世界を沢山見ることが出来ました。カエルになったオタマジャクシは池の外の世界で見てきたことをさかなに伝えます。さかなは好奇心を持ち、自分も見てみたいと思いました。さかなは池から出てみますが、息が出来なくて苦しくなり、結局池から出ることは出来ませんでした。しかし、自分の住む池をよく見てみると池の中も素晴らしい世界なのだと気づくことが出来ました。

『さかなはさかな』は『スイミー』とは逆のことを言っていると思いました。『スイミー』は外へ外へと世界を広げていきますが、『さかなはさかな』は自分の住む世界の良さを見出す話です。さかなはオタマジャクシのようにカエルになることは出来ません。自分自身と他の人との違いを知り、自分のアイデンティティを確立するということについても伝えようとしているのかなと思いました。

『フレデリック‐ちょっとかわったねずみのはなし』

他のねずみ達は冬に備えて食べ物を集めていても、フレデリックは働きませんでした。冬になって食べ物が無くなって心も凍えている仲間のねずみ達に、フレデリックはそれまで集めてきた素敵な言葉を贈ります。フレデリックが紡ぐ言葉は他のねずみ達の心に太陽の光や色を色鮮やかに蘇らせることが出来ました。レオ=レオニは戦争を経験しているので、貧しい生活をしていても心の中に美しいイメージが膨らめば心豊かに暮らせるということを伝えているのだと思いました。

『みどりのしっぽのねずみ‐かめんにとりつかれたねずみのはなし』

平和に暮らしていたねずみ達がある日、怖い仮面を付けて遊び出しました。初めは面白がっていたのに次第にお互いに懐疑的になり憎み合うようになってしまいます。「仮面をとってみれば?」と言われて仮面を取って燃やしてしまうと元の平和な日常に戻りました。

悪い言葉を使っているうちに性格や行動も攻撃的になっていったりすることもあると思います。レオ=レオニは戦争をそういうものだったと伝えているのだと思いました。そして、群衆は熱狂に流されやすく惑わされやすいということも警告しているのだと思いました。

『コーネリアス‐たってあるいたわにのはなし』

生まれながらに立って歩けるワニのコーネリアスに対して、他のワニ達は冷ややかな様子で見ていました。コーネリアスは怒って仲間から去り、外の世界に旅立って行きました。そこでコーネリアスは逆立ちが出来る猿に出会います。素直なコーネリアスは猿に指導を受けて、猿も嬉しそうにコーネリアスに逆立ちを教えました。自分の能力をさらに伸ばして元のワニの世界に戻ってそれを披露しました。すると、ワニ達はまたも冷ややかな態度を取りますが、陰でコーネリアスのようになろうと練習をするという話でした。

他の人には出来て自分には出来ないという場面に出会った時、コーネリアスのように素直であれば猿のように教えてくれる人も現れるのかなと思いました。コーネリアスを冷ややかに見ていたワニ達もありのままの自分を受け入れられていたら、素直にコーネリアスを認めて、褒めたり楽しんだり「自分にも教えて」と言えたのかもしれないと思いました。

『マシューのゆめ‐えかきになったねずみのはなし』

貧しいねずみ一家の一人息子のマシューは両親の医者になってほしいという希望に反して「ぼく、えかきになる」と宣言して、画家になります。レオ=レオニは人々の生活には美しい詩や文学や絵画や音楽など芸術が必要だということを伝えているのだと思います。

芸術とは美への追及だと思います。私は情操教育ってなんだろうと考えました。私の答えは子どもに美しいものを見分ける審美眼を身に着けさせる教育だと思います。人々が憎みあったり妬みあったり戦争や紛争だったり、そういうものを美しいと思いません。子ども達がそういう選択をしないために、美しいものを直観的に見分ける眼を育む情操教育が必要なのだと思います。レオ=レオニは芸術家が平和な世界を導くと信じていたのだと思いました。

まとめ

『みんなのレオ=レオーニ展』を観に行って、レオ=レオニの人生を知り、彼の作品が描かれた背景を知ることが出来て絵本への理解が深まりました。また、レオ=レオニが描いた絵本の原画やアニメーションのパーツなどを間近でじっくり鑑賞することが出来ました。レオ=レオニが描いた油絵や水彩画、様々な広告のポスターなどを観て、レオ=レオニのアーティストとしての側面も知ることも出来ました。

展示ではレオ=レオニと親交があったエリック=カールがレオ=レオニとの関係や作品についてコメントしているビデオも放映されていました。エリック=カールの絵本も私は大好きで、『パパ、お月さまとって!』や『だんまりこおろぎ』、『はらぺこあおむし』をよく読み聞かせしています。我が子も大好きでじっくり聞いてくれるし、私も読んでいるとほっとリラックスします。

レオ=レオニの絵本もエリック=カールの絵本も色彩が鮮やかで美しく、子どもの世界を広げてくれて情操を豊かにしてくれます。エリック=カールとレオ=レオニはお互いの才能や活躍を認め合って素敵な交友関係があったのでしょう。

レオ=レオニとエリック=カールの絵本は、これからもずっと世界中の子ども達や大人達の心に残り続けると思います。

みどり
【追記】この記事を書いた2021年5月23日、エリック=カール氏は91歳でこの世を去りました。ドイツ人の両親を持つエリック=カールはアメリカで生まれましたが、第二次世界大戦中はドイツで過ごして苦労しました。レオ=レオニはユダヤ人なので迫害を避けてアメリカに亡命しました。レオ=レオニとエリック=カールは二人とも戦争で暗い経験をしたから、平和な世界を築くために、子ども達に明るい色彩の絵本を沢山残してくれたのでしょうね。

読んでくださり有難うございました。

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