この記事を書いている現在、東京都美術館でゴッホ展が開催されています。(開催期間2021年9月18日〜2021年12月12日)
私はオランダに住んでいた頃、オランダ国内の400か所以上の美術館や博物館等に1年間無料で入場することが出来るミュージアムカードを持っていました。そのカードを使ってゴッホ美術館やクレラー=ミュラー美術館を何度も訪れて、ゴッホの絵から沢山のインスピレーションや癒しをもらいました。
日本に帰国してからも2016年に開催された『ゴッホとゴーギャン展』や2019年に開催されたゴッホ展に足を運びました。日本では2年に1回くらいのペースでゴッホ展が開かれているので、ゴッホが好きな日本人は多いと思います。
今回はゴッホの生涯とオランダのゴッホ美術館とクレラー=ミュラー美術館についてのご紹介とゴッホ展2021を訪れた感想について記事にさせていただきます。
ゴッホの生涯
ゴッホ生誕から画家になるまで
フィンセント・ファン・ゴッホは1853年にオランダ南部にある村ズンデルトで生まれました。父は牧師で、3人の妹と2人の弟がいました。2人の弟の1人が生涯の理解者であり支援者のテオです。
16歳の時、ゴッホは叔父が共同経営者であった美術商グーピル紹介のデン・ハーグ支店で働き始めました。4歳下のテオも同じ職場に就職しました。ゴッホは20歳の時にロンドン支店に転勤を命じられ、2年後にはパリ本店に異動しました。その頃から美術商になるという志望が失せて宗教にのめりこみ、グーピル商会から解雇されました。それでオランダに帰国し、父の跡を継いで牧師になろうと考えました。ゴッホの両親はゴッホが牧師になるために大学進学準備のための個人授業の費用を負担しましたが、ゴッホはこれにも挫折してしまいました。
そこでゴッホは伝道師(正教師の資格を持たないキリスト教の伝道者)になるための講座を受けて、ベルギー南部の炭鉱地帯ボリナージュへ向かい、そこで貧しい炭鉱夫やその家族と一心同体となって生活をしました。
1879年(26歳)には伝道師としての契約期間が終わり、教会からその継続を拒まれました。ゴッホは両親からも社会的な脱落者扱いされるようになりました。
弟テオの助言で画家を志す
どうしたら良いかと悩んでいたゴッホに、弟のテオは画家を志したらどうかと助言しました。ゴッホは「人間の真の感情を絵で残したい」と画家を志すようになりました。しかし、ゴッホの両親は画家になりたいという彼の夢を許さず、弟のテオに兄の面倒を見るように頼みました。その頃テオはグーピル商会を引き継いだパリの美術商ブッソ・ヴァラドン商会で働いていました。
才能の発見、油彩制作のためにデッサンに集中
画家になると決心したゴッホはブリュッセルの美術アカデミーに入学し、数カ月間そこで絵画教育を受けました。1881年4月(28歳)、ゴッホは北ブラバント地方のエッテンに行き、両親と暮らすようになりました。そこで様々なデッサン用画材を試したり、遠近法や解剖学、人相学を習得しようとしました。その頃は農民生活を作品の題材にしていました。
1881年末ゴッホはデン・ハーグへ移り、肖像画家になりたいという夢を実現させるため、人物画のデッサンを沢山描きました。1883年(30歳)、ゴッホは美しい自然の残るオランダ東北部のドレンテへ向かい3カ月間過ごし、その後北ブラバント地方のニューネンに引っ越していた両親の家に舞い戻りました。
オランダ南部のニューネンで油彩を描く
当時、フランス人の画家ジャン=フランソワ・ミレー(1814‐1875)は農民生活を描いた作品でヨーロッパ中で高い評価を受けていました。ゴッホはミレーに倣って周囲の農民や労働者の生活を描こうと固く決意し、1884年(31歳)の終わり頃から農民の顔や労働で節くれだった手を次々に描きました。そして、1885年(32歳)、オランダ時代の傑作『ジャガイモを食べる人たち』が完成しました。
パリで印象派の絵を目にし、明るい色調を取り入れる
1886年(33歳)、ゴッホは弟のテオがいるパリに移りました。ここでゴッホは印象派や後期印象派の作品を目にし、オランダでそれまで描いてきた暗い陰鬱な自分の作品が時代遅れに見えました。ゴッホは印象派と後期印象派の技法や浮世絵の様式を研究し、明るい色調を作品に取り入れるようになりました。
また、パリではポール・ゴーギャン(1848‐1903)やアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864‐1901)などの画家たちと知り合い、親交を深めていきました。
南仏アルルで画家としての自信をつけるも、癲癇性の発作発生、耳切り事件
1888年の初め(34歳)、ゴッホはパリを離れて南仏のアルルに移りました。ゴッホは明るい色彩の様式を確立させ、画家として自分の将来に希望を抱けるようになりました。春には花咲く果樹の連作、夏には黄金色に輝く麦畑の連作を次々と描きました。
ゴッホはアルルに親交のある画家を集めて共に暮らして創作活動に励むための芸術家共同体の夢を抱きました。1888年10月(35歳)、ゴーギャンがアルルの「黄色い家」に来るとゴッホの夢は実現したかに見えましたが、気質の違いや芸術に対する考え方の違いにより二人の関係性に困難が生じました。また、この頃からゴッホは癲癇性の発作に襲われるようになり、ゴッホは心の安定を崩していきました。12月23日、ゴッホはゴーギャンと激しい口論の末、自分の耳たぶの一部を切り落とし、アルル市立病院に搬送されました。ゴーギャンからの電報を受けて弟のテオは夜行列車でパリからアルルに向かい、12月24日テオはゴッホを見舞いました。
ファン・ゴッホは、…写実主義者としての目を通して世界を見ていた。しかし、ゴーギャンに促され、この頃には想像から制作する試みを始めていた。
「たいていの場合、フィンセントとわたしはほとんど意見が合わない。特に絵画に関してそうだ。彼は、ドーミエ、ドービニー、ジェム、大ルソーを賞賛するが、彼らは皆、わたしには耐え難い画家だ。一方で、彼はアングル、ラファエロ、ドガを嫌うが、皆わたしが高く評価する画家だ。わたしは平穏に暮らしたいので、そのとおりでございます、と返事をする。彼はロマン主義的だが、わたしはより原始的な状況に関心があるのだ。色彩について、彼はモンティセリのような厚塗りに将来性を感じているが、わたしはいじりまわした筆触が嫌いだ。そのほかもいろいろあるのだ。」
ファン・ゴッホの芸術は、深遠で人の慰めとなる何かをもたらしたいという彼の願いに深く根ざしていた。一方で、ゴーギャンは美に関することこそが芸術において最も重要なものだと譲らなかった。
『ゴッホとゴーギャン展』P17-19シラール・ファン・ヒューフテン、ウォウター・ファン・デル・フェーン、大橋菜都子(東京都美術館学芸員)森美樹(愛知県美術館主任学芸員)、塩津青夏(愛知県美術館学芸員)、中野悠(愛知県美術館学芸員)執筆、2016年10月発行 より引用
サン・レミの精神病院に入院
1889年(36歳)、ゴッホはアルル郊外のサン・レミの精神病院に入院しました。サン・レミ時代の作品はアルル時代の強烈な色彩に比べると抑えられた色彩になりました。この年の終わり、パリで行われた第5回独立美術家協会展やベルギーの前衛芸術家グループ「レ・ヴァン(20人)」展で、ゴッホの作品が数点展示され、わずかながらも評価されました。
オーヴェール・シュル・オワーズ、ゴッホの最期
1890年5月(37歳)、ゴッホは療養院を出てパリ北西の静かな村オーヴェール・シュル・オワーズに移り住みました。ゴッホは作品が評価され始めたにも関わらず、「僕は落第者だ」と弟テオに宛てた手紙で辛い気持ちを伝えていました。落ち込んでいましたが、数10点にのぼる油彩とデッサンを精力的に制作していましたが、苦悩に耐え切れず同年7月にピストルで胸を打ち抜き、2日後に弟のテオに看取られながら息を引き取りました。
弟テオはゴッホが亡くなった僅か半年後に梅毒を患って33歳でこの世を去りました。ゴッホが画家を志してからずっと精神的にも経済的にも弟のテオがゴッホを支えてきたので、ゴッホはテオに感謝し、制作した作品のほとんどをテオに送っていました。テオが亡くなった後、ゴッホの作品は息子のフィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホに相続されましたが、事実上管理していたのはテオの未亡人のヨハナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルでした。ヨハナはゴッホの才能を信じて疑わず、ゴッホを天才画家として世に広めていきました。
ゴッホが亡くなった後のゴーギャン
1891年、ゴーギャンは自然のままの真に原始的な社会を求め、タヒチへと旅立ちました。
ゴッホ美術館とクレラー=ミュラー美術館について
ゴッホ美術館
ゴッホの弟のテオが亡くなった後、テオの未亡人ヨハナはオランダに帰国し、国内でゴッホの作品が広く知れ渡るように各地で展覧会を開いたり絵を売ったりしました。1920年代にはゴッホの才能が国際的に評価されるようになりました。ゴッホの才能が認められると、ヨハナはゴッホの作品をまとめて保管することにし、1920年以降は作品をほとんど売却しませんでした。1925年にヨハナが亡くなると、息子のフィンセント・ヴィレムが作品を引き継ぎ、1930年にほとんどの作品をアムステルダム市立美術館に一括貸与しました。
1950年代、ゴッホのための美術館建設を提示していたオランダ政府に応える形で、1962年に設立されたばかりのフィンセント・ファン・ゴッホ財団に持っていた作品を譲渡しました。1973年、ファン・ゴッホ美術館が開館しました。
クレラー=ミュラー美術館
クレラーミュラー美術館はアムステルダムの東80㎞、オッテルロー近郊のホーヘ・フェルウェ国立公園内にあります。この美術館は、個人収集家ヘレーネ・クレラー=ミュラー(1869‐1939)が生涯をかけて築いたものです。
ヘレーネは1908年に初めてフィンセント・ファン・ゴッホの作品を購入しました。次第に美術へ情熱を傾けるようになり、アドバイザーであった美術教師ヘンク・ブレマーとともに11,000点を超えるコレクションを築き上げました。ヘレーネは1911年に悪性腫瘍を患い、命を落とすかもしれない手術を受けなければなりませんでした。彼女はもし生きながらえることが出来たら、一層身を入れて収集活動を行い、芸術を愛する社会への遺産としてコレクションを築いて、それを美術館で公開しようと決意しました。
1920年代末から1930年にかけて世界規模の経済危機が訪れ、夫のアントンの会社は大きな打撃を受けました。ヘレーネとアントンは全てのコレクションをクレラー=ミュラー財団に移管し、作品を展示する美術館の建設を条件にオランダ政府に寄付しました。夫妻がフェルウェの田舎に所有した広大な土地は随分低い金額で売却され、「ホーヘ・フェルウェ」という名称の国立公園になりました。1938年、クレラー=ミュラー美術館が開館し、ヘレーネは初代館長になりました。1939年、ヘレーネは人類に素晴らしい財産を遺して70歳でこの世を去りました。
今日、クレラー=ミュラー美術館には約90点の絵画と180点の素描画からなるゴッホ・コレクションを所蔵しています。また、クロード・モネ、パブロ・ピカソやピート・モンドリアンなどの巨匠たちの作品も展示されています。
ゴッホ展2021を訪れた感想
先日、『ゴッホ展‐響きあう魂ヘレーネとフィンセント』(2021)を訪れました。今回の展示はクレラー=ミュラー美術館からゴッホの初期から晩年までの油彩画28点と素描・版画20点のほか、ミレーやモンドリアンなどの作品が展示されていました。
オランダでクレラー=ミュラー美術館を訪れていましたが、今回のゴッホ展ではゴッホの作品を収集したヘレーネ・クレラー=ミュラーがどんな人だったのか、そしてどれくらいのお金をかけて購入してきたのかもしっかりと説明があったので、とても興味深く鑑賞することが出来ました。まだそれほど評価されていなかったゴッホの作品を評価してとても高い金額で購入し、それらを展示する美術館を開館して後世に遺したクレラー=ミュラー夫妻の素晴らしい行動に感謝と尊敬の念を抱きました。
ヘレーネが一番最初に購入した1908年の初期にゴッホが描いた油彩『森のはずれ』や素描『祈り』、『夜のプロヴァンスの田舎道』、『黄色い家』などの作品をゴッホの人生を追いながら鑑賞することが出来、ゴッホへの理解が深まりました。私は以前から『ジャガイモを食べる人たち』の絵が好きだったのですが、今回の展示で初期のオランダ時代の全体的に黒い静物画を観て、オランダ時代の黒い絵が益々好きになりました。どの絵も背景は黒いのですが、その黒の絵具を塗った筆の跡がキラキラと輝いていたし、描かれていたリンゴや鳥の巣などの対象物に光が当てられていて、とても素敵でした。まるで暗いホールの中でオーケストラやバレエを鑑賞しているようなそんな構図で、益々好きになりました。
大好きな『種まく人』の絵も観られて本当に良かったです。また、先日モンドリアン展では観られなかったモンドリアンのコンポジションも観ること出来ました。とてもシックな色彩でオシャレな作品だなぁと感じました。
まとめ
私は美術館に行くといつも売店で公式ガイドブックを買ってきます。公式ガイドブックには美しい絵画や解説がしっかり載っていてとても面白いです。普段バタバタと暮らしていますが、時々時間を見つけて絵を眺めると心癒されます。私がいつかお婆さんになって時間がいっぱいできた時には、ガイドブックの絵をゆーっくりと眺めたいと思っています。
オランダで何度もゴッホ美術館やクレラー=ミュラー美術館に行きました。帰国してからゴッホ展がある度に美術館でゴッホの絵を観てきました。日本での展覧会はゴッホと浮世絵、ゴッホとゴーギャン、ゴッホを理解したクレラー=ミュラーについてというように色々な角度からゴッホの絵と人生を紹介してくれているので、展覧会に行く度にゴッホについての理解が深まり、知れば知るほどゴッホの絵が好きになっていきます。
美しい色彩や構図、紆余曲折な人生、弟テオとの兄弟愛など、私は全てを愛おしく感じます。
読んでくださり有難うございました。