裸の大将、山下清は発達障害でサヴァン症候群だったらしい。【山下清展感想】

先日、私はSOMPO美術館で2023年6月24日~9月10日まで開催されていた『生誕100年 山下清展-百年目の大回想』展に行ってきました。

昭和世代の多くの方にとって、山下清といえば『裸の大将』ではないでしょうか。

過去に私は岐阜県高山市にある『古い町並み美術館』で山下清の花火や戦争の絵の作品を観たことがあったのですが、今回の展覧会を訪れて山下清さんの人物像をより深く知ることが出来たので、それについて記事にさせていただきます。

山下清略年譜

1922年3月10日、父・大橋清治、母・ふじの長男として東京市浅草田中町(現在の東京都台東区)に生まれました。
1923年(1歳)、関東大震災が発生し家が消失しました。
1924年(2歳)、父母の故郷である新潟県に移り住みました。
1925年(3歳)苦しい生活の中で、清は思い消化不良にかかり歩行困難となりました。高熱が続き3か月後に完治しましたが、軽い言語障害(吃音)となりました
1926年(4歳)、一家は再び東京・浅草に戻りました。
1928年(6歳)、台東区立石浜小学校に入学しました。その後、台東区立正徳小学校に移りました。
1932年(10歳)、父が死去。この頃から知的障害が少しずつ顕著になり、言語障害などが原因で周囲の子ども達のイジメにあうようになりました。子どもたちの養育や生活のため、母・ふじが再婚しました。
1834年(12歳)、4月、母と再婚相手の夫とともに、杉並区和田堀の母子家庭向け社会福祉施設『隣保舘』に入りました。6年生になった清は、杉並の小学校に編入しましたがまたもイジメられ、そのイジメが原因で軽い傷害事件を起こしてしまいました。そして、5月に千葉県の擁護施設『八幡学園』に入園しました
1935年(13歳)八幡学園の教育の一環であった「ちぎり絵」と出会いました。これにより一気に画才が開花した清は、独自の技法による「貼絵」として作品を進化させていきました。
1937年(15歳)、早稲田大学心理学教室の戸川行男により、早稲田大学第一高等学院芸大会会場及び大学図書館ホールで清を中心とした八幡学園児童の貼絵の小展覧会が開催されました。特に清の作品は多くの来場者の注目を集めました。
1938年(16歳)、早稲田大学大熊講堂階下で再び清の作品を中心とした作品展が開催され、安井曾太郎などの画家たちからも賛辞を受けました。
1939年(17歳)、『みづゑ』11月号に安井曾太郎選による八幡学園児童の作品が特集されました。26点中25点が清の貼絵という内容でした。12月、銀座の画廊・青樹社で開催された個展は大きな反響を呼び、多くの画家や文学者やジャーナリストたちにも論じられました。
1940年(18歳)11月風呂敷包みをひとつだけ持って、突然学園から姿を消し千葉県各地を放浪しました。(~1943年5月)これが断続的に続く清の放浪の始まりでした。放浪の理由は、学園生活に飽きたことと翌年に控えていた徴兵検査を恐れていたことでした。放浪中は、時に仕事に就くこともあり、千葉県松戸市の魚屋、我孫子市の弁当屋、柏市の蕎麦屋などに住み込みで働いていました。住み込み先でもしばらくすると放浪に出てしまい、また帰ってくるということを繰り返しました。
1943年(21歳)、4月、21歳になったことで徴兵適齢期を過ぎたと考え、東京に住む母の家に戻りましたが、5月に母が強引に徴兵検査場に連れて行くも不合格となり兵役免除となりました
10月、
学園にまた戻り、驚異的な記憶力により2年半にも及ぶ放浪中の風景を貼絵にして、出来事を日記に書き綴りました。しかし12月、再び学園を出ました。(~1949年1月)時に自宅や学園に戻ることはあるものの、すぐに居なくなり、気ままな放浪生活を送りました。
1945年(23歳)、東京大空襲後、母の無事を確かめるため東京に行き悲惨な状況を目の当たりにしました。この頃は終戦前後という不穏な時代であり、長途の放浪には出ませんでした。
1946年(24歳)、1月、学園近郊の放浪から母の家に戻りました。3月、職業安定所の紹介で進駐軍関連の仕事に就きましたが、1日で辞めてしまい、そのまま放浪に出ました。4月、千葉県各地を放浪しているうちに当時流行していた発疹チフスにかかり、母の家に帰りました。6月、再び放浪に出て、その範囲は関東地方を出ることもあり、行動範囲が広がっていきました。

1947年(25歳)関東周辺の放浪から東京の母の家に戻りました。
1949年(27歳) 1月、5年ぶりに学園に戻った清は、例によって放浪中の出来事を貼絵や日記にする毎日を過ごしました。創作から離れていた空白の5年間も清の画才は損なうことはなく、むしろ一段と技術が冴え、色彩豊かになっていきました。しかし5月、再び旅心を掻き立てられ、放浪に出ました。(~9月)9月、静岡県三島で衣類を盗まれ放浪を中断し、学園に戻りました。この頃、清は油彩にも取り組むようになりました。
1950年(28歳) 5月、再び放浪に出ました。(~11月)7月、甲府駅で悪ふざけしたことが誤解を招き、精神病院へ4か月入れられてしまいました。11月2日に病院を脱走し、8日間歩きづめで学園へ戻りました。人々を驚嘆させた貼絵の代表作『長岡の花火』、数少ない自画像である『自分の顔』を創作したのもこの頃でした
1951年(29歳) 5月に学園を飛び出し、再び放浪の旅が始まりました。(~1954年1月)松島見物を皮切りに、約3年間、日本中を歩き回りました。お金がある時には汽車にも乗りましたが、ほとんどは歩きでの旅でした。暑い時期は東北方面へ、寒くなると九州方面へと、日本の四季を感じながらの気ままな旅でした。
1953(31歳) 秋、アメリカのグラフ誌『ライフ』の記者が、清の少年時代の貼絵を作品集で見たところ、その天才ぶりに驚き放浪中の清を探し始めました。12月、それを知った朝日新聞が全国の通信網を使って清の捜索にかかりました。折から東京の丸善では、ゴッホ生誕100年を記念する展覧会が開催され人気を集めていましたが、清の作風がパリ時代のゴッホに似ているところから『日本のゴッホ』と書きたてられました
1954年(32歳) 1月、朝日新聞に創作記事が掲載され、鹿児島にいる清を地元の高校生が発見しました。実に2年8か月ぶりに発見された清を実弟の辰造が迎えに行き、約3年ぶりに実家に戻った清は家と学園を行き来しました。4月、八幡学園延長宛に『放浪を辞める誓い』という誓約書を書きました。しかし、翌月にはもう放浪に出てしまいました。15年間に渡る清の放浪生活を綴った『放浪日記』が東京タイムズに掲載され、話言葉で綴られた独特のスタイルの文章は、作家や文化人の間で話題になりました。
1955年(33歳) 7月、前年の5月から続いた放浪から家に戻りました。有名になった清の旅は、以前のような気ままな放浪の旅はなく、旅先で絵を描いて売ることで旅の試験を調達するというスタイルに変化していました。どこへ行っても絵を描いてくれとせがまれた清は、今回の約1年2か月の旅で、クレパス画、油彩、貼絵など、60点近くの作品を旅先で描いて買ってもらいました。この旅の様子は『芸術新潮』9月号に掲載され、「初めて絵を売る(放浪よ、さようなら)」というタイトルで掲載されました。
1956年(34歳) 3月、東京の大丸で『山下清作品展』が開催され、26日間で80万人を動員する驚異的な記録を樹立しました。その後大判の本格的な画集『山下清作品集』(栗原書房)が出版されました。また、式場隆三郎編による『はだかの王様 山下清の絵と日記』(現代社)は、数万部を売りつくすほどに反響でした。7月、『週刊朝日』の人気コーナーである徳川夢声対談『問答無用』に登場しました。この時に清が発した「兵隊の位に直すと~」というフレーズが流行語となりました。9月、『長岡の花火』『両国の花火』を図案化した東京・松竹セントラル劇場の大緞帳が制作されました。陶磁器の絵付けやマジックペンによるペン画はこの頃始めました。陶磁器は、島根県の湯町窯を皮切りに全国各地の窯元に出向き、創作した陶磁器の絵付けは、数百点にのぼりました。文芸春秋に掲載した旅行記で、読者賞を受賞しました。これは清にとっておそらく初めての受賞でした。
1957年(35歳) 3月、母・ふじ、弟辰造とともに家族で世田谷に住み始めました。以後、他界するまで家族と同居しました。10月、記録映画『はだかの天才画家 山下清』(日本映画新社)が公開されました。この年、全国約50カ所で『山下清展』が開催されました。夏には、清デザインの浴衣や洋服も作られました。
1958年(36歳) 10月、小林桂樹主演の映画『裸の大将』(東宝)が封切られ、その年の映画興行成績ベスト10に入るほどの人気となりました。しかし、当の清は、映画の主人公である山下清像に違和感を持ち、自身とのギャップに悩んでいました
1960年(38歳) 6月、バラエティー番組『東は東』(フジテレビ)へのレギュラー出演が始まりました。(~1961年5月)清は番組で扱われたその日のテーマを、ガラスボードに即興で絵を描くという役割でした。『新東京十景』が全国名勝絵はがきコンクールに選ばれました。
1961年(39歳) 1月、横浜マリンタワーのモザイク壁画『横浜の今昔』を制作しました。6月、ヨーロッパへの旅に出ました。約40日間の旅で、経由地を含めると12か国(ドイツ、スウェーデン、デンマーク、オランダ、イギリス、フランス、スイス、イタリア、エジプト、経由地のカナダ、タイ、香港)もの国を巡りました。この旅にはスケッチブックを持参し、帰国後、秋には作品展を開催しました。また、この時の旅の出来事を記した『ヨーロッパぶらりぶらり』(文芸春秋)も出版されました。
1963年(41歳) スポーツニッポンのオリンピック特集でスケッチを引き受けました。この掲載は、約1年間に渡りました。京都南座で『裸の大将』が特別公演されました。主演の芦屋雁之助が清役を演じるにあたって断髪式が行われ、清本人も参加しました。弟・辰造と東京都練馬区に移りました。
1965年(43歳) 生涯のライフワークとして、最終的には貼絵にすることを夢見て、素描による『東海道五十三次』の創作を始めました。以後、東京から京都まで約4年間の取材とスケッチの旅が続きました。取材の旅は、清のペースでゆっくりと勧められ、起点となる日本橋が皇居前広場になるなど様々なエピソードを生みました。
1969年(47歳) 『東海道五十三次』の取材を終え、自宅のアトリエで素描の創作に専念している最中、ちょうど『熱田神宮』を描き上げた時、清は高血圧による眼底出血を起こし倒れました。以後、創作活動を制限し療養生活に入りました。
1971年(49歳) 7月10日夜、脳溢血で倒れました。夕食後の家族との語らいで清がつぶやいた「今年の花火見物はどこに行こうかな」が最後の言葉になりました。7月12日朝、永眠しました。享年49歳。

山下清展で展示されていた作品

幼少期の作品

『花火』(大橋清)鉛筆画1930ー1932年頃
『こいのぼり』(大橋清)鉛筆画1930ー1932年頃
『ほたる』貼絵1934年
みどり
山下清は昆虫好きの少年だったそうです。弟も子どもの頃は虫取りばかりしていたから、虫取りしている男の子の姿って想像出来るなぁ。私は虫を怖がっていたけど…。

八幡学園での日々

『ラジオ体操』貼絵1936年
『就寝』貼絵1937年
『ともだち』貼絵1938年
みどり
八幡学園に入学するまではイジメられて辛い思いをしてきたけど、学園に入学してからは貼絵と出合い、そして先生やお友達に囲まれて作品にも人物が描かれるようになってきました。
『八幡様の鳥居』貼絵1939年

静物画を貼絵で創作

『栗』貼絵1938年
みどり
戦争によって色紙や画用紙などの物資が手に入りにくくなっていた当時、代わりに古い切手やチラシ、包装紙などで創作していました。『栗』は古い切手を使用し、栗のイガを立体的に表現しました。ちぎるだけではなくてこよりを作って貼っているのが面白いと思いました。
『菊』貼絵1939年

怖れていた戦争

「戦争というのは殺しっこをやると言う話を聞いたので 戦争と言うものは一番こわいもので一番大事なものは命で 命より大事なものはない 命を取られると死んでしまう 死ぬのは何より一番つらいもので 死んでしまえば楽しみもなければ 苦しみもない 死ぬまでの苦しみが一番つらい 戦争よりつらいものはない(山下清)」

『鉄条網』貼絵1938年
『高射砲』貼絵1938年

学園を抜け出して放浪へ

『学園から出かけるところ』鉛筆画1955年
『汽車道を歩いているところ』鉛筆画1954年

放浪記の貼絵

ドラマ『裸の大将』では旅先で貼絵やスケッチをしていましたが、実際の清は基本的には旅先で絵を描いたり貼絵をしてませんでした。絵の道具すら持っていませんでした。そもそも絵を描くためではなく、外の世界が見たくて学園を飛び出していました。清は旅先で見た風景や出来事を克明に記憶することが出来たので、放浪の途中で自宅や学園に戻ると旅先での風景を貼絵にし、出来事は日記に綴りました。完成した貼絵は実際の風景と寸分違わず、清の記憶は消えることが無かったため何年も前に創作した貼絵と全く同じ貼絵を創作することも出来たそうです。

みどり
山下清はサヴァン症候群だったのですね!天才だったわけです。
『長岡の花火』貼絵1950年
『学園付近の景色』貼絵1943年
『自分の顔』貼絵1950年
みどり
山下清はゴッホについて「ゴッホは生きているあいだはちっとも絵がうれないので 売れないのは自分の絵がへたくそだと思ってがっかりして死んだので 死んでからみんながゴッホはえらいといっても 死んでいるゴッホには聞こえない」(山下清)と言葉を残しました。ゴッホについては『ゴッホ美術館とクレラー=ミュラー美術館についてとゴッホ展2021の感想
』の記事もよろしければご覧ください。

油彩への挑戦

『ぼけ』油彩1951年
みどり
ゴッホの『花咲くアーモンドの枝』のオマージュのようですね。
『花咲くアーモンドの枝』フィンセント・ファン・ゴッホ1890年

進化する貼絵

『グラバー邸』貼絵1956年

ヨーロッパにて清が見た風景

「僕は日本中ほとんど歩いてしまったので どうしても外国が見学したい」

『ロンドンのタワーブリッジ』貼絵1965年
『パリのサクレクール寺院』貼絵1962年
『パリの凱旋門』ペン画1961年
『オランダの風車』水彩画1961年

遺作・東海道五十三次

東海道五十三次・富士(吉原)版画 制作年不詳
東海道五十三次・舟でくる町(桑名)版画 制作年不詳

まとめ

山下清のことは昔、テレビドラマ『裸の大将』を観て知っていたのですが、今回の『山下清展』を観るまでは山下清さんに知的障害や発達障害があったことをはっきりと認識していませんでした。

八幡学園で貼絵を学びその技術をどんどん進化させていき、そして本人が持つ「サヴァン症候群」のずば抜けた記憶力や集中力、色彩感覚などの才能が類まれなる作品の数々を生み出したということを理解することが出来ました。

放浪中は絵を描いたり貼絵をしたりせず、八幡学園から抜け出して見たことのない景色を求めて自由に旅をしていたということを知り、好奇心の強さを感じ取ることが出来ました。そういわれてみれば、ゴッホもゴーギャンピカソレオ=レオニモンドリアンも、みんなあちこち色々な土地で過ごして色々な景色を見ているなぁと共通点を見出しました。

山下清本人は、ドラマのイメージが自分の本当の姿と異なることに悩んでいたようですが、ドラマのお陰で自分が多くの人々に受け入れられ、絵が売れていたということも理解していたようです。ゴッホのように生きているうちに才能が評価されない人生は辛いので、山下清は才能が評価され、絵も売れて、そしてドラマや映画化までされて大衆に愛されたので、良かったなと思いました。

読んでくださり有難うございました。

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