ハプスブルク帝国の歴史とハプスブルク展に行った感想について

私は以前、ハプスブルク展(2019年10月19日 – 2020年1月26日開催)に行きました。日本・オーストリア友好150周年を記念して来日したマリー・アントワネットやマリア・テレジアの肖像画を観て、「すごいお宝が来ているな!」と驚嘆しました。

私はこのブログでオランダに住んでいた頃に訪れた国々の歴史を調べて来ました。ヨーロッパの国々の歴史を調べると必ずハプスブルク家が絡んできます。しかし、ドイツオーストリアを旅した際のブログには歴史について書いておらず、ハプスブルク帝国を軸に歴史をもう一度振り返りたいと思っていました。

今回はハプスブルク帝国の歴史を調べて、ハプスブルク展で観た絵画の感想を記事にさせていただきます。

ハプスブルク帝国の歴史

ローマ帝国→西ローマ帝国→フランク王国

ローマ帝国の時代(紀元後27年〜395年)は、ライン川を境にして南側はローマ帝国領でした。4世紀後半にアジアからフン人がヨーロッパに侵入してくると、東ヨーロッパに住んでいたゲルマン人が西ヨーロッパに大移動を始めてローマ帝国に移住して来ました。それによりローマ帝国内で混乱が生じ、395年にローマ帝国は西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂しました。西ローマ帝国にはいくつかのゲルマン人の王国が誕生し、481年にフランク人のクローヴィスが初代国王となり、フランク王国が出来ました。クローヴィスはローマ・カトリック教に改宗し、キリスト教を保護したため、この地のゲルマン人にキリスト教が広まりました。フランク王国は次第に領土を広げ、8世紀のカール大帝(フランク王在位768年‐814年、ローマ皇帝在位800年‐814年)の頃には現在のイタリア、オーストリア、オランダ、スロベニア、スイス、ドイツ、フランス、ベルギー、ルクセンブルクにまたがる広域を支配していました。

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カールは西ヨーロッパ全域まで領土を拡大し、イベリア半島のイスラーム勢力とも戦った功績を称えられ、ローマ教皇からローマ帝国皇帝の冠を授けられました。カール大帝がドイツのアーヘンに建設したアーヘン大聖堂では、936年から1531年までの約600年間に神聖ローマ帝国の30人の皇帝たちの戴冠式が行われました。宜しければ「ドイツのアーヘン大聖堂とブリュールのお城とモンシャウへの旅について」の記事もご覧ください。

東フランク王国→神聖ローマ帝国(ハプスブルク朝まで)

フランク王国分裂→東フランク王国

9世紀半ば頃から、スカンジナビア半島に住んでいたノルマン人のヴァイキングがヨーロッパ各地に侵入して来ました。それにより843年、フランク王国は西フランク王国(現在のフランスの起源)、中部フランク王国(現在のイタリアの起源)、東フランク王国(現在のドイツの起源)に分裂しました。

東フランク王国→オットー1世戴冠で神聖ローマ帝国成立

911年、カール大帝以降続いていたカロリング朝が断絶しました。9世紀ごろから、現在のロシア西部にあるウラル山脈周辺の遊牧民だったマジャール人が西側に移動を始めました。東フランク国王だったオットー1世(東フランク王在位936年‐973年、イタリア王在位951年‐973年、ローマ皇帝在位962年‐973年)は955年にマジャール人を撃退しました。また、カトリックの中心地であるイタリアに遠征し、オットー1世は951年にイタリア王位継承権を持つロターリオ2世の未亡人アデライーデと結婚して、イタリア王にもなりました。

マジャール人を撃退し、キリスト教の布教に努めた功績を認められたオットー1世は962年にローマ教皇から神聖ローマ帝国皇帝の冠を授かりました

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オットー1世に撃退されたマジャール人はハンガリーに定着し、ハンガリー王国が出来ました。ハンガリーの歴史にも触れているので、宜しければ「ハンガリーのブダペスト子連れ旅行(王宮、国会議事堂、鍾乳洞等)について」の記事もご覧ください。
神聖ローマ帝国は、数多くの公領(バイエルン、ザクセンなど)、地方伯領(チューリンゲン)、辺境伯領(ブランデンブルク、オーストリアなど)といった大小様々の諸侯国や王国(ボヘミア、イタリア)から成り立つ連邦国家でした。神聖ローマ皇帝は選挙によって選ばれていました。まず、「選帝侯」といわれる諸侯の有力者によって「ドイツ国王」が選出され、そのあと国王はローマ法王から戴冠することによって「神聖ローマ皇帝」の地位に就いていました
オットー1世は諸侯の勢力を抑えるために、諸侯の領土にある教会を味方につけようとしました。そのために、教会の聖職者の任免権を皇帝が持つ帝国教会政策」を実施しました。
オットー1世がローマで戴冠して以来、10~13世紀の歴代の神聖ローマ皇帝は、カトリックの中心地であるイタリアを支配するために遠征することが多く、本国のドイツに不在になり、統治が疎かになりました。
歴代の皇帝は諸侯を従えるために「帝国教会政策」を行っていましたが、それが原因で当時の神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世(在位1056年‐1106年)と教皇グレゴリウス7世(在位1073年‐1085年)は聖職叙任権を巡って対立し、1076年に「叙任権闘争が起こりました。教皇グレゴリウス7世に破門されてしまったハインリヒ4世は、1077年に皇帝は「カノッサの屈辱」で教皇に赦しを請い破門は解かれましたが、皇帝の権威は失墜していきました。
13世紀から14世紀にかけて諸侯の領土が独立国のようになってしまい、最盛期には300もの領邦が出来てしまいました。神聖ローマ皇帝としての影響力は弱まっていき、遂には皇帝不在の時代(大空位時代、1256年‐1273年)が生じました。
ハプスブルク家のルドルフ1世が皇帝になる

皇帝不在の大空位時代という不安定な時代に、ボヘミア王(チェコ)のオトカルがオーストリアに勢力を伸ばし、さらにドイツ国王に選出されることを狙っていました。それに警戒していた教皇とドイツ諸侯は1273年にスイス地方の一諸侯に過ぎなかったハプスブルク家のルドルフ1世をドイツ国王に選出しました。ルドルフ1世は1278年にオトカルを破り、オーストリアの地を獲得しました。しかし、オトカルを破ったことで実力者として頭角を現したハプスブルク家は、選帝侯から忌避されてしまい、ルドルフが亡くなった後はおよそ150年間、神聖ローマ皇帝の冠は他家に移ってしましました。

神聖ローマ皇帝カール4世(ボヘミア王在位1347年‐1378年、神聖ローマ皇帝在位1355年‐1378年)は1356年に金印勅書を発布し、皇帝選出権を3人の宗教諸侯(マインツ、ケルン、取りあの領主大司教)と4人の世俗諸侯(ボヘミア王、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、プファルツ伯)の7人の「選帝侯」に付与することが定められました。それにより、教皇と皇帝に対する諸侯と教会の優位性が法的に承認されました
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カール4世は神聖ローマ帝国の首都をチェコのプラハに移し、それによりプラハは発展しました。宜しければ「子連れ旅行、チェコのプラハのクリスマスマーケットについて」の記事もご覧ください。

神聖ローマ帝国ハプスブルク朝

マクシミリアン1世、ネーデルラント継承

1440年、ハプスブルク家のフリードリヒ3世(ドイツ王在位:1440年 – 1493年、神聖ローマ帝国皇帝在位1452年‐1493年)はドイツ王に選ばれ、1452年に神聖ローマ帝国皇帝の戴冠を受けました。フリードリヒ3世は1477年、息子のマクシミリアン1世(ブルゴーニュ公在位1477年 ー 1482年、ローマ王在位1493年‐1508年、神聖ローマ帝国皇帝在位1508年 ー 1519年)をブルゴーニュ公国の公女で一人娘のマリアと結婚させ、ネーデルラント17州を含むブルゴーニュ公領を継承しました。マクシミリアン1世は戦況の影響でローマに入ることが出来ず、教皇の戴冠によらず自ら皇帝に即位しました。これ以降、ハプルブルクの神聖ローマ皇帝はいずれもローマで戴冠式を挙げず自ら即位しました。

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ブルゴーニュ公国はブリュッセルを首都とし、今日のフランスのブルゴーニュからベルギー、オランダ、ルクセンブルグにまで広がっていた国でした。ブルゴーニュ公国は11世紀頃から毛織物産業により当時のヨーロッパでは最大の富を集め、最も豊かな文化を誇っていました。ブルージュは当時世界の貿易の中心として繁栄していました。宜しければ「子連れ旅行、ベルギーのブルージュの歴史と旅と、オーステンデのビーチについて」「子連れ旅行、ベルギーのアントワープの歴史と旅について」「子連れ旅行、ベルギーの歴史とブリュッセルの旅について」もご覧ください。
マクシミリアン1世は、1493年に王宮をチロルのインスブルックに開きました。マクシミリアンはチロルの豊な銀や銅の採掘権を富豪のフッガー家に与え、見返りに巨額の財政支援を得ました。また、チロルは岩塩の産地で、塩への課税を行い、国の貴重な財源としました。
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宜しければ「子連れ旅行、雪景色のノイシュバンシュタイン城とインスブルックとドロミティ山塊への旅について」「子連れ旅行、オーストリアのザルツブルクとザルツカンマーグートについて」の記事もご覧ください。ザルツブルクは「塩の城」という意味です。ハプスブルクを軸にしてみるとあちこち繋がってきます。

マクシミリアン1世、息子と孫を政略結婚させてスペインとボヘミア・ハンガリーも獲得

マクシミリアン1世は1496年、息子のフィリップをスペインのカスティリャ王国の女王フアナと結婚させて、その間に生まれた長男カールがスペインを相続しました。また、フィリップとフアナの間に生まれた次男フェルディナントは1521年にボヘミア=ハンガリー王国の王女アンナと結婚し、ハンガリーとボヘミアを一族の手中に収めました。

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「戦いは他のものにさせるがよい。汝幸あるオーストリアよ、結婚せよ」という有名な詩があります。

ハプスブルク家、日没なき世界帝国に

フィリップとスペインのカスティリャ王国の女王フアナの間に生まれた長男カール(スペイン王カルロス1世在位1516年‐1556年、神聖ローマ帝国皇帝在位1519年‐1556年)は1516年にスペイン王として即位し、1519年にカール5世として神聖ローマ皇帝に選ばれ、翌年アーヘン大聖堂で戴冠式を挙げました。

1492年はすごい年。グラナダが陥落し、コロンブスが新大陸を発見する

スペインは8世紀以来、イスラム教徒の支配下にありましたが、11世紀からカトリック教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が行われ、1492年にイベリア半島最後のイスラム王朝グラナダが陥落し、カトリックの勝利に終わりました。

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レコンキスタにも触れているので、宜しければ「子連れ旅行、スペインのグラナダのアルハンブラ宮殿の旅について」「スペインのコルドバとセビリャの旅について」「子連れ旅行、ベルギーのアントワープの歴史と旅について」の記事もご覧ください。グラナダのアルバイシン地区には沢山のユダヤ人が住んでいました。レコンキスタでイスラム教徒だけではなくユダヤ人も弾圧されたため、ユダヤ人もイベリア半島を去りネーデルラントのアントワープに移住し、その後アムステルダムに移住していきました。

また、カスティリャ王国の女王イサベル(フアナの母)の援助を得て大西洋に船出したコロンブス1492年に新大陸を発見しました。スペインは1521年にメキシコのアステカ王国を征服し、1533年にペルーのインカ帝国も征服しました。また、カルロス5世の特許を得たマゼランの船は1522年に世界周航に成功しました。当時のスペインは大西洋の彼方の新大陸から極東のフィリピンまで支配する植民帝国として躍進中であったため、ハプスブルク家は「太陽の沈まない国」の支配者となりました。

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新大陸では多くの原住民インディオが虐殺されました。日本は織田信長や豊臣秀吉が天下統一をして、徳川家康の江戸幕府は日本を鎖国していたから本当に良かったです。日本はいいタイミングでしかも割と早く国家が統一されたのですね。それに比べて、ドイツはすごく遅いです。そのせいで近代化や中央集権化に遅れ、経済的に破綻して、第一次・第二次世界大戦へと向かったのでしょうね。なんでドイツと同盟国になってしまったんだ…。

ルターの宗教改革

16世紀初め、ローマ教会はバチカンにあるサン・ピエトロ大聖堂の再建費用捻出のため免罪符を発行し、それにより権威を失いました。1517年、ドイツ人のルターは「95か条の論題」を発表して法王を告発しました。当時、印刷技術の発明とも重なり、ルターの説(教会の儀式や権威を否定し、聖書のみを信仰の対象とする聖書主義)はたちまち大きな反響を生みました。

ルターを支持するプロテスタントは諸侯の間で次第に広がり、1530年にプロテスタント諸侯はシュマルカルデン同盟を結成してカール5世と対立し、1546年にシュマルカルデン戦争が起きました。この戦いではカール5世が勝利しましたが、1555年にアウクスブルクの宗教和議でルター派は容認されました

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宜しければサン・ピエトロ大聖堂について触れているので、「子連れ旅行、イタリアのローマとバチカンの旅について」もご覧ください。また、「子連れ旅行、ベルギーのアントワープの歴史と旅について」では16世紀に作られた印刷所のことも記載があります。

カール5世退位後、ハプスブルク家は2系統に分裂

カール5世退位後、ハプスブルク家は長男フェリペ2世のスペイン=ハプスブルク家とカール5世の弟フェルディナント1世のオーストリア=ハプスブルク家に分裂しました

カルヴァン派のオランダ、スペインから独立

16世紀、ネーデルラント北部7州の民族はゲルマン系で言語はドイツ語系、宗教は主にカルヴァン派で海運と商業が盛んでした。南部10州の民族はラテン系で言語はフランス語系、宗教は主にカトリック、農牧業と毛織物工業が盛んでした。ネーデルラントはスペイン=ハプスブルク家によって支配されており、カール5世の息子のフェリペ2世(スペイン王在位1556~98)の対ネーデルラント政策はカルバン派教徒の弾圧、自治権の抑制、重税を課していました。それに反発してオランダ独立戦争が起き、1579年にネーデルラント北部7州はユトレヒト同盟を結成し、1581年にオラニエ公ウィレムを総督としてネーデルラント連邦共和国を宣言しました。(南部10はスペイン領として残り、後にベルギーになりました。)

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カルヴァン派は「現世の天職を与えられたものとして務めることで神への絶対的服従を示すことができる」と予定説で説きました。365日禁欲的に働くと、財産が貯まります。カトリックでは蓄財自体が罪とされましたが、カルヴァンは勤労の結果としての蓄財は容認しました。ただその財産で贅沢をするのは罪とし、財産を商品を仕入れたり、新たな店への投資に使うことは認められました。この考え方が資本主義の原点となりました。オランダにはシェルやフィリップス、ユニリーバ、ハイネケンなど有名企業が沢山あり、勤勉な国民性です。

三十年戦争(カトリックvsプロテスタントの戦争)でドイツはボロボロに

カール5世はアウクスブルクの宗教和議でルター派を容認しましたが、その後スペイン=ハプスブルク家は徹底した異端弾圧政策によってカトリックを擁護しました。一方、オーストリア=ハプスブルク家のフェルディナント1世は柔軟な立場を取り、息子のマクシミリアン2世はむしろプロテスタントに近かったです。彼の後を継いだルドルフ2世(神聖ローマ帝国皇帝在位1576年‐1612年)は、新旧両教から距離を置き、首都をウィーンからプラハに移し、錬金術や占星術、膨大な量の美術品の収集に没頭する奇人でした。

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ハプスブルク展ではルドルフ2世のコレクションも来日していました。

こうした中、新旧両教の間で緊張が高まりつつあった1618年、プラハのフラチャニー城で、2人の皇帝代官らが窓から放り投げられる事件が発生し、この事件を発端としてボヘミアから三十年戦争が始まりました。三十年戦争ではスペイン、ローマ法王の救援軍、スウェーデン、スペイン、フランスなどの欧州諸国が介入し、紛争は国際的な規模に拡大して長期化していき、宗教戦争ではなく露骨な政治戦争になっていきました。三十年戦争の主戦場となったドイツとボヘミアは荒廃し、ドイツの人口の1/3が減ったと言われています。

イギリス宗教改革、無敵艦隊がイギリスに大敗

イギリスのヘンリ8世(イングランド王在位1509‐1547)は男の子を生めない妻キャサリンと離婚し、愛人のアン=ブーリンと結婚したいと思っていましたが、ローマ教皇クレメンス7世に離婚を訴えましたが認められなかったため、離婚を認めないカトリック教会を離脱し、1534年にイギリス国教会という新しい宗派を成立させ、自らその頂点に立つ「首長法」を発布しました。ヘンリ8世の死後、エドワード6世(在位1547‐1553)が一般祈祷書を公布し、エリザベス1世(在位1558‐1603)は1559年に統一法を発布し、礼拝や儀式に関する作法を定め、イギリス国教会を確立しました。

こうしてカトリックのスペインとプロテスタントのイギリスとの関係は悪化しました。1588年、エリザベス1世は当時絶頂であったスペインの「無敵艦隊(アルマダ)」を撃破しました。

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イギリスの歴史については宜しければ「子連れ旅行、イギリスの歴史とロンドンの旅について」をご覧ください。

スペイン=ハプスブルク家断絶

スペイン・ハプスブルク家の最後の王カルロス2世(在位1665‐1700)は、病弱で知的障害があり、王位継承者がいませんでした。1700年にカルロス2世が亡くなり、スペイン=ハプスブルク家が断絶すると、フランス王国ブルボン朝の国王ルイ14世が孫のフェリペをスペイン王としたことによって、1701年から1713年にかけてスペイン継承戦争が起こりました。(スペイン+フランスVSオーストリア+イギリス+プロイセン+オランダ)結果、1713年に締結されたユトレヒト条約によってルイ14世の孫フェリペがスペイン国王として即位することは認められましたが、ネーデルラント、ミラノ、ナポリ、サルデーニャはオーストリア・ハプスブルク家へ、ジブラルタルとメノルカ島はイギリス領へ、アメリカ大陸のニューファンドランド島とアカディアとハドソン湾地方がフランス領からイギリス領となり、スペインは没落し、イギリスは北アメリカ大陸の植民地を得てイギリス優位の時代に入りました

マリア・テレジアとマリー・アントワネット

スペイン=ハプスブルク家が断絶した頃、オーストリア=ハプスブルク家も皇帝カール6世(神聖ローマ帝国皇帝在位1711年‐1740年)に男子の世継ぎがいなかったため、断絶の危機に陥っていました。1740年にカール6世が亡くなると、長女のマリア・テレジア(ハンガリー女王在位1740年‐1780年、オーストリア女大公在位1740年‐1780年)が23歳でハプスブルク家を相続することになりました。それに対してバイエルンとザクセン選帝侯が反発し、プロイセンは石炭も鉄鉱石が豊富な上、肥沃な農業地帯であるシュレージエンに侵入してきて、オーストリア継承戦争が始まりました。

マリア・テレジアはハンガリーで戴冠式を行い、ハンガリー議会に涙ながらに支援を訴えました。ハンガリーは軍隊を送り、財政支援をしたため、オーストリアはプロイセンとの闘いを乗り切りました。

1745年にマリア・テレジアの夫のフランツ1世(神聖ローマ帝国皇帝在位1745年‐1765年)が皇帝に選ばれました。マリア・テレジアは、皇妃として夫フランツと共同統治し、経済政策や教会政策に取り組んだほか、国の基幹産業である農業分野にも着目し、農民保護にも取り組みました。

マリア・テレジアは16人もの子どもを産み、政略結婚を推し進めました。プロイセンと対抗するために、長く覇権を争ってきたフランスのブルボン家との関係を重視し、長男ヨーゼフ、三男レオポルト、四男フェルディナント、六女マリア・アマーリア、十女のマリア・カロリーナの5人をいずれもイタリアのブルボン家系のもとへと嫁がせました。さらに、11女のマリー・アントワネット(フランス王妃在位1755‐1793)は、フランス国王ルイ16世の王妃として迎え入れらました。しかし、マリー・アントワネットはフランス革命という時代の渦に巻き込まれ、悲劇の死を迎えました。

神聖ローマ帝国解体、オーストリア帝国になり、1918年にハプスブルク帝国終焉

フランス革命後、市民革命を恐れたイギリスやスペイン、オーストリア、プロイセンが対仏大同盟を結成しました。それによってフランス国内は対外国に対して危機感が高まりました。また、ルイ16世処刑後、ロベスピエールによって恐怖政治が行われ、政局が不安定になりました。1794年にロベスピエールが処刑されて、1795年に総裁政府が設立されました。

その不安定な政局の中、1796年に軍人だったナポレオン(皇帝在位1804‐1814、1815)はイタリア遠征をしてオーストリアを破り、1798年にはマルタ島を経由してエジプト遠征をしてオスマン帝国を破りました。その功績によりフランス国民の支持を得て、1799年にナポレオンは政権を掌握しました。1802年にナポレオンは終身統領となり、1804年にフランス民法典ナポレオン法典を成立させました。そして同年、パリのノートルダム大聖堂にローマ教皇ピウス7世を招いて戴冠式が行われ、皇帝ナポレオン1世となりました。

ナポレオン戦争により神聖ローマ帝国は解体し、ハプスブルク家は1804年にオーストリア帝国(1867年からオーストリア=ハンガリー二重帝国)の支配者になりました。実質的に最後の皇帝となったフランツ・ヨーゼフ1世(オーストリア皇帝在位1848年‐1916年)は晩年には皇妃エリザベト(オーストリア皇后在位1854年‐1898年)の非業の死や第一次世界大戦に苦しめまれ、自らも病死してしまいました。そして1918年、第一次世界大戦終結と同時にハプスブルク帝国は遂に終焉の日を迎えました。
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ハプスブルク家は1440年から1918年まで歴史に大きな影響を与えて来ました。最盛期にはヨーロッパだけでなく北アメリカや南アメリカ、フィリピンなど世界中の覇者として君臨していて、すごいですね〜。

ハプスブルク展の感想

ここからは、ハプスブルク展の感想です。ハプスブルク展では、歴史の中に登場してくるマクシミリアン1世やルドルフ2世、フェリペ4世、スペイン王妃イサベル、マルガリータ、マリア・テレジア、マリー・アントワネット等の肖像画やハプスブルク家の歴代の人たちが集めた甲冑や金銀細工などの工芸品、レンブラントが描いた絵画などとても貴重な作品を沢山観ることが出来ました。どの肖像画も活き活きと美しく描かれていて、スペインの巨匠ベラスケスの『マルガリータ』や『イサベル』の肖像画は、生きていて今にも話しかけてきそうな雰囲気でした。

世界で初めてカメラ撮影されたのは1826年フランスでだったようです。エリザベトの肖像を検索してみると、写真で撮影されたものが沢山出てきたのですが、絵画で描かれた肖像画の方が人柄が伝わってきて良いなと思いました。

『王としてのマクシミリアン1世』ベルンハルト・シュトリーゲルとその工房、あるいは工房作,1507/08年頃,ウィーン美術史美術館
『神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の肖像』ヨーゼフ・ハインツ(父),1592年,ウィーン美術史美術館
『スペイン国王フェリペ4世の肖像』ディエゴ・ベラスケス,1631年,ウィーン美術史美術館
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ピカソは若い頃、マドリードで若い頃スペインの巨匠ベラスケスの作品を観て学びました。ベラスケスはフェリペ4世の寵愛を受け、宮廷画家として王妃イサベルや王女マルガリータ・テレサら王族の肖像画を多く描きました。宜しければ「『ピカソとその時代』展に行ったのでその感想【ピカソ作品の変遷】」をご覧ください。
『スペイン王妃イサベルの肖像』ディエゴ・ベラスケス,1631年,ウィーン美術史美術館
『甲冑をつけたオーストリア大公レオポルト・ヴィルヘルム』ヤン・ファン・デン・フーケ,1642年,ウィーン美術史美術館
『オーストリア大公フェルディナント・カールの肖像』フランス・ライクス,1648年,ウィーン美術史美術館
『青いドレスの王女マルガリータ・テレサ』ディエゴ・ベラスケス,1659年,ウィーン美術史美術館
『皇妃マリア・テレジアの肖像』マルティン・ファン・メイテンス(子),1745‐50,ウィーン美術史美術館
『フランス王妃マリー・アントワネットの肖像』マリー・ルイーズ・エリザベト・ヴィジェ=ルブラン,1778,ウィーン美術史美術館
『オーストリア=ハンガリー二重帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の肖像』ヴィクトール・シュタウファー,1916年,ウィーン美術史美術館
『薄い青いドレスの皇妃エリザベト』ヨーゼフ・ホラチェク,1858年,ウィーン美術史美術館
『使徒パウロ』レンブラント,1636年,ウィーン美術史美術館
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レオポルト・ヴィルヘルム(1614年-1662年)は神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の子で、17世紀にネーデルラント総督を務めていました。交易の盛んなブリュッセルに赴任中の約10年間に約1,400点の絵画と350点の素描、さらに彫刻やタペストリーなど幅広い作品を収集しました。レンブラント(1606年‐1669年)はオランダを代表する画家で『夜警』が有名です
『夜警』レンブラント・ファン・レイン,1642年,アムステルダム国立美術館
みどり
アムステルダム国立美術館にある『夜警』はとても大きい(3.63m× 4.3m)作品でした。市民自警団が出動する様子が活き活きと描かれています。中心人物にスポットライトが当てられていて、人間関係も表現されています。
これくらいの大きさでした。
『牛乳を注ぐ女』ヨハネス・フェルメール,1657年,アムステルダム国立美術館
みどり
アムステルダム国立美術館にはフェルメールの『牛乳を注ぐ女』もあります。2018年のフェルメール展で来日していたので観に行きました。私はオランダのハーグにある「マウリッツハイス」美術館にある『真珠の耳飾りの少女』が好きです。
『真珠の耳飾りの少女』ヨハネス・フェルメール,1665,マウリッツハイス

まとめ

ハプスブルク展ではハプスブルク家の人物の肖像画を観ることが出来てとても楽しめました。世界の歴史に多大な影響を与えてきたハプスブルク家の人々の肖像画なので、歴史的にも芸術的にも大変貴重で、オーストリアのまさに国宝なのだと思います。

450年以上続いたハプスブルク朝の歴史は、主要な部分を浅く調べただけでもこんなにも長くなってしまいました。私はスペイン黄金時代の歴史が特にドラマチックで面白いです。

神聖ローマ帝国はカトリックを統治の根拠にしてきたので、ルターやカルバンが登場し、宗教戦争も起こり、弱体化していきました。また、神聖ローマ帝国が長く続いたため、ドイツには長い間多くの諸侯の領邦が存在し、国の統一が遅れたのも理解しました。(そのお陰でノイシュバンシュタイン城など素敵なお城が沢山あるのですね!)

プロテスタントの人々によって建国されたオランダはプロテスタントの国なので、オランダの教会にはイエス・キリストやマリア様の像も祀られていなくて、ガラーンとしていました。(教会の中でバスタブの商談会が開かれていたのを見た時はさすがにショックを受けました)隣国のドイツやベルギーはカトリックの国なので、ケルン大聖堂があったり、教会には美しいステンドグラスや祭壇があったりしていて、オランダとの違いに驚きました。ヨーロッパは宗教によって国境が出来ているところもあるので、宗教は歴史に大きな影響を与えたのだと理解しました。

2013年にオランダ国王の即位式が行われたアムステルダムにある新教会です。(日本から皇太子同妃両殿下も参列されました。)普段は展覧会が催されていることがあり、私が訪れた際にはちょうどローマ展が催されていました。
新教会で開かれていたローマ展では、世界の宗教分布についての展示がありました。
新教会の中です。祭壇もなく、十字架もなく、ガラーンとしていました。
パイプオルガンだけがありました。他は何の装飾もありませんでした。華美なものを嫌う質実剛健な国民性が覗えます。
新教会の中。新教会に足を運ぶ人も少なく、ガラーンとしていました。
新教会の中に車が展示されていました。カトリックの国の教会ではありえないと思います。オランダがプロテスタントの国だからですね。

ハプスブルク家の歴史についてはこの本がとても面白くお勧めです。

読んでくださり有難うございました。

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