先日、『ピカソとその時代ベルリン国立ベルクグリューン美術館展』に行ったので、今回はピカソについて調べたことと感想を記事にさせていただきます。
ピカソの絵画の変遷
天才の誕生@マラガ→ア・コルーニャ→バルセロナ→パリ(1881‐1901)
パブロ・ルイス・ピカソは1881年10月25日にスペインのイベリア半島の南部の港町マラガに生まれました。
青の時代とローズの時代(1902年‐1905年)
青の時代
1901年2月(20歳)、親友のカジャジェマスは恋人との失恋が原因で自殺してしましました。親友の死を経験し、ピカソはそれからしばらく青色を主に使った憂愁と悲愴感漂う「青の時代」の様式を確立していきました。
「青の時代」は実際にはパリではなく、バルセロナに生まれた。バルセロナの海と空、そして労働者の衣裳など、すべてブルーである。世紀転換期からのバルセロナはガウディの建築やそのクライアントに象徴されるごとく、産業と貿易で経済的に興隆し、新興ブルジョワジーが新開地シャンプラを舞台に台頭する。しかしその一方で、出稼ぎ労働者や米西戦争の敗北による引揚者などの貧困層がピカソの生活空間である旧市街のゴシック地区にあふれていた。バルセロナの光と影、ピカソはその影を生きる。青の時代はそうした環境のもとに形成され、名作の多くは最後のバルセロナ時代に生まれた。
『ピカソ作品集』大高保二郎著、株式会社東京美術 より引用
ローズの時代
1904年(23歳)4月に当時の近代美術の聖地であり、最先端のモードに溢れたパリに定住し、その年の夏、ピカソはフェルナンド・オリヴィエと出会い同棲を始めました。1905年(24歳)に描かれた絵画の数々は「ローズの時代」と呼ばれており、家族や仲間たちの日常の愛や人間的な温もりが描かれています。
ゴズル(ピレネー山系奥の小村)滞在時代、キュビズムの模索(1906‐1908)
1906年(25歳)5月から2カ月半、ピカソは恋人のフェルナンドとピレネー山系の小村ゴズルに滞在しました。このわずか2か月半の間に2メートル超の大作7点、デッサンや画帖類など300点以上を描きました。水と空気が美味しいだけの小村での単調な生活はピカソの作品に影響を与え、テラコッタやオークル系の大地の色彩に変えていきました。
また、イベリア彫刻(紀元前、古代ローマに支配される前のイベリア半島に住んでいた人による彫刻作品)もピカソの作品に影響を与え、単純化と類型化という重要な表現原理を覚醒させました。それはキュビズムを予感させるものでした。
そして、1907年(26歳)7月、キュビズム揺籃期(初期)の代表作『アヴィニヨンの娘たち』が完成しました。ピカソの絵はこの頃から次第に売れるようになり、画商や批評家、コレクターから一目置かれる若手画家の一人になっていました。
造形革命、キュビズムの時代(1909年‐1914年)
ピカソは1909年から1914年の間、ジョルジュ・ブラックと共にキュビズムの絵画的革命を起こしました。
優美への回帰、新古典主義(1915年‐1924年)
ジョルジュ・ブラックと共に革命を起こしたキュビズムは商業的・批評的にも成功していましたが、第一次世界大戦を機に1914年で終了しました。戦時中は前衛芸術や外国系の流派にフランス国内で批判が起こり、保守的な風潮がありました。また、ピカソ自身が1917年(36歳)、ロシアのバレエ団(バレエ・リュス)とコラボレーションしたり、イタリアに旅行し、ローマやナポリ、フィレンツェを訪ねて古代からルネサンス、バロック美術の名作に接したことにより、ピカソは古典に回帰しました。しかし、単に回帰したのではなく、クラシックなスタイルにキュビズムの手法をピカソ流に取り入れた「新古典主義」を展開しました。
1918年(37歳)、ピカソはバレエ・リュスのバレリーナのオルガ・コクローヴァ(ウクライナ人)と結婚し、1921年(40歳)でピカソ待望の第一子パウロが誕生しました。
オルガと結婚すると、ピカソの生活は一変しました。パリの高級街に住み、メイドとお抱え運転手のいるブルジョワジーな生活をし、上流社会や有名人と交遊していました。ブルジョワな生活は「新古典主義」の作品へも影響を与えています。
しかし、ボヘミアン的資質を持っていたピカソは、後年「金持ちになって貧乏人のような生活をしたい」が口癖でした。
シュルレアリスム(超現実)の時代(1925‐1935)
1925年(44歳)、妻オルガとの関係は悪化し結婚生活は破綻しました。また、1927年(46歳)、17歳のフランス人モデルのマリー・テレーズと出会い、二人は恋人関係になりました。この頃、若い世代のシュルレアリストたちによる革新的な芸術運動が興り、カンディンスキーやモンドリアンによる抽象絵画の確立があり、時代背景にはファシズムや戦争への恐怖がありました。
ピカソの交遊関係はとても幅広く、それがピカソの芸術に影響を与えてきました。この頃、異端文学者のジョルジュ・バタイユとの交友も深め、それがピカソの芸術に暴力とエロス、野蛮と暗黒の世界観を創り上げました。
《ゲルニカ》戦争の時代(1936‐1944)
1937年5月24日、万国博覧会がパリを主会場に開幕しました。一方、その前年の1936年7月18日、スペインでは内線が勃発し、およそ3年間戦闘状態が続きました。万博開幕直前の1937年4月26日、北スペインのバスク地方の古都ゲルニカはドイツによる空爆でほぼ壊滅しました。この空爆は民間人を犠牲にした史上初の「無差別爆撃」でした。数日後の5月1日、プラド美術館長であったピカソは母国の悲劇を訴えるために万国博覧会のスペイン館に展示しようと『ゲルニカ』の制作に着手し、約1か月後の6月4日にほぼ完成させました。
「絵画は部屋を飾るために描かれるのではない。それは攻撃と、敵に対する防衛のための戦いの武器である」(レ・テトル・フランセーズ掲載のインタヴュー、1945年3月24日)
『ピカソ作品集』大高保二郎著、株式会社東京美術 より引用
「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」の感想
ベルクグリューン美術館とは
ベルクグリューン美術館とは、ベルリン国立美術館群ナショナルギャラリーの一部であり、ヨーロッパで最も重要なモダン・アートの美術館の一つです。
ベルクグリューン美術館は、画商でありコレクターであるハインツ・ベルクグリューン(1914年‐2007年)のコレクションから成り立っています。
1914年にベルリンで生まれたベルクグリューンは、1936年にナチス・ドイツから逃れてアメリカに渡り、フリーのアート・ジャーナリストとして活動した後、サンフランシスコ美術館で職を得ました。第二次世界大戦後にパリに画廊を設立し、20世紀を代表するアーティストの作品を扱いました。ベルクグリューンはアーティストと個人的に親交を深め、私的にも収集するようになりました。
ベルクグリューンは画商としては多くの作品を扱い成功をしていましたが、一方コレクターとしては自分の好みを優先し、とりわけパブロ・ピカソ(1881年‐1973年)の作品(120点以上)とパウル・クレー(1879年‐1840年)の作品(70点)を集めました。
今回の展覧会では、ベルリン国立ベルクグリューン美術館のコレクションのうちパブロ・ピカソ(1881‐1973)、パウル・クレー(1879‐1940)、アンリ・マティス(1869‐1954)、アルベルト・ジャコメッティ(1901‐1966)という20世紀の4人のアーティストに焦点を当てて構成され、ベルクグリューン美術館の上記6人の作品97点に、日本の国立美術館が所蔵する同じ芸術家たちの作品11点を加え、合計108点が展示されていました。
今回の展示で観た作品のいくつかをご紹介
パブロ・ピカソの作品
私は知らなかったけど好きになったパウル・クレーの作品
アンリ・マティス
まとめ
これまでピカソの絵の変化の理由を知らなくて特徴を捉えるのが難しかったのですが、今回勉強してから絵を観てみたら、描かれた背景がよく分かり、理解しやすくなりました。
ピカソは1881年に生まれてから91年間の人生の中で4回戦争を体験しています。1898年に米西戦争が起こり、スペインは戦争に敗北して経済的に破綻しました。その暗い時代に友人の死を経験し、「青の時代」の絵が描かれました。
その後、ジョルジュ・ブラックと共に進めた「キュビズム」運動は第一次世界大戦(1914年‐1918年)により突然中断し、保守的な空気の中「新古典主義」時代の絵が生まれました。
そしてスペイン内戦(1936年‐1939年)、第二次世界大戦(1939年‐1945年)が起こり、『ゲルニカ』が描かれました。
ピカソの絵は戦争とともにフェルナンド・オリヴィエ、オルガ・コクローヴァ、マリー・テレーズ、ドラ・マールという4人の女性が大きく影響していることも分かり、それもピカソの絵を鑑賞する面白さに繋がることが分かりました。
今回のベルクグリューン美術館展では初めてパウル・クレーやジョルジュ・ブラックの絵も観ることが出来、キュビズムを理解するのに役立ったと共に、現代アートの鑑賞の面白さにも気付くことが出来ました。
絵画は観て楽しく、学んで楽しいものだなぁと改めて思いました。
読んでくださり有難うございました。