私は以前、ハプスブルク展(2019年10月19日 – 2020年1月26日開催)に行きました。日本・オーストリア友好150周年を記念して来日したマリー・アントワネットやマリア・テレジアの肖像画を観て、「すごいお宝が来ているな!」と驚嘆しました。
私はこのブログでオランダに住んでいた頃に訪れた国々の歴史を調べて来ました。ヨーロッパの国々の歴史を調べると必ずハプスブルク家が絡んできます。しかし、ドイツとオーストリアを旅した際のブログには歴史について書いておらず、ハプスブルク帝国を軸に歴史をもう一度振り返りたいと思っていました。
今回はハプスブルク帝国の歴史を調べて、ハプスブルク展で観た絵画の感想を記事にさせていただきます。
- 1 ハプスブルク帝国の歴史
- 1.1 ローマ帝国→西ローマ帝国→フランク王国
- 1.2 東フランク王国→神聖ローマ帝国(ハプスブルク朝まで)
- 1.3 神聖ローマ帝国ハプスブルク朝
- 1.3.1 マクシミリアン1世、ネーデルラント継承
- 1.3.2 マクシミリアン1世、息子と孫を政略結婚させてスペインとボヘミア・ハンガリーも獲得
- 1.3.3 ハプスブルク家、日没なき世界帝国に
- 1.3.4 ルターの宗教改革
- 1.3.5 カール5世退位後、ハプスブルク家は2系統に分裂
- 1.3.6 カルヴァン派のオランダ、スペインから独立
- 1.3.7 三十年戦争(カトリックvsプロテスタントの戦争)でドイツはボロボロに
- 1.3.8 イギリス宗教改革、無敵艦隊がイギリスに大敗
- 1.3.9 スペイン=ハプスブルク家断絶
- 1.3.10 マリア・テレジアとマリー・アントワネット
- 1.3.11 神聖ローマ帝国解体、オーストリア帝国になり、1918年にハプスブルク帝国終焉
- 2 ハプスブルク展の感想
- 3 まとめ
ハプスブルク帝国の歴史
ローマ帝国→西ローマ帝国→フランク王国
ローマ帝国の時代(紀元後27年〜395年)は、ライン川を境にして南側はローマ帝国領でした。4世紀後半にアジアからフン人がヨーロッパに侵入してくると、東ヨーロッパに住んでいたゲルマン人が西ヨーロッパに大移動を始めてローマ帝国に移住して来ました。それによりローマ帝国内で混乱が生じ、395年にローマ帝国は西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂しました。西ローマ帝国にはいくつかのゲルマン人の王国が誕生し、481年にフランク人のクローヴィスが初代国王となり、フランク王国が出来ました。クローヴィスはローマ・カトリック教に改宗し、キリスト教を保護したため、この地のゲルマン人にキリスト教が広まりました。フランク王国は次第に領土を広げ、8世紀のカール大帝(フランク王在位768年‐814年、ローマ皇帝在位800年‐814年)の頃には現在のイタリア、オーストリア、オランダ、スロベニア、スイス、ドイツ、フランス、ベルギー、ルクセンブルクにまたがる広域を支配していました。
東フランク王国→神聖ローマ帝国(ハプスブルク朝まで)
フランク王国分裂→東フランク王国
9世紀半ば頃から、スカンジナビア半島に住んでいたノルマン人のヴァイキングがヨーロッパ各地に侵入して来ました。それにより843年、フランク王国は西フランク王国(現在のフランスの起源)、中部フランク王国(現在のイタリアの起源)、東フランク王国(現在のドイツの起源)に分裂しました。
東フランク王国→オットー1世戴冠で神聖ローマ帝国成立
911年、カール大帝以降続いていたカロリング朝が断絶しました。9世紀ごろから、現在のロシア西部にあるウラル山脈周辺の遊牧民だったマジャール人が西側に移動を始めました。東フランク国王だったオットー1世(東フランク王在位936年‐973年、イタリア王在位951年‐973年、ローマ皇帝在位962年‐973年)は955年にマジャール人を撃退しました。また、カトリックの中心地であるイタリアに遠征し、オットー1世は951年にイタリア王位継承権を持つロターリオ2世の未亡人アデライーデと結婚して、イタリア王にもなりました。
マジャール人を撃退し、キリスト教の布教に努めた功績を認められたオットー1世は962年にローマ教皇から神聖ローマ帝国皇帝の冠を授かりました。
ハプスブルク家のルドルフ1世が皇帝になる
皇帝不在の大空位時代という不安定な時代に、ボヘミア王(チェコ)のオトカルがオーストリアに勢力を伸ばし、さらにドイツ国王に選出されることを狙っていました。それに警戒していた教皇とドイツ諸侯は1273年にスイス地方の一諸侯に過ぎなかったハプスブルク家のルドルフ1世をドイツ国王に選出しました。ルドルフ1世は1278年にオトカルを破り、オーストリアの地を獲得しました。しかし、オトカルを破ったことで実力者として頭角を現したハプスブルク家は、選帝侯から忌避されてしまい、ルドルフが亡くなった後はおよそ150年間、神聖ローマ皇帝の冠は他家に移ってしましました。
神聖ローマ帝国ハプスブルク朝
マクシミリアン1世、ネーデルラント継承
1440年、ハプスブルク家のフリードリヒ3世(ドイツ王在位:1440年 – 1493年、神聖ローマ帝国皇帝在位1452年‐1493年)はドイツ王に選ばれ、1452年に神聖ローマ帝国皇帝の戴冠を受けました。フリードリヒ3世は1477年、息子のマクシミリアン1世(ブルゴーニュ公在位1477年 ー 1482年、ローマ王在位1493年‐1508年、神聖ローマ帝国皇帝在位1508年 ー 1519年)をブルゴーニュ公国の公女で一人娘のマリアと結婚させ、ネーデルラント17州を含むブルゴーニュ公領を継承しました。マクシミリアン1世は戦況の影響でローマに入ることが出来ず、教皇の戴冠によらず自ら皇帝に即位しました。これ以降、ハプルブルクの神聖ローマ皇帝はいずれもローマで戴冠式を挙げず自ら即位しました。
マクシミリアン1世、息子と孫を政略結婚させてスペインとボヘミア・ハンガリーも獲得
マクシミリアン1世は1496年、息子のフィリップをスペインのカスティリャ王国の女王フアナと結婚させて、その間に生まれた長男カールがスペインを相続しました。また、フィリップとフアナの間に生まれた次男フェルディナントは1521年にボヘミア=ハンガリー王国の王女アンナと結婚し、ハンガリーとボヘミアを一族の手中に収めました。
ハプスブルク家、日没なき世界帝国に
フィリップとスペインのカスティリャ王国の女王フアナの間に生まれた長男カール(スペイン王カルロス1世在位1516年‐1556年、神聖ローマ帝国皇帝在位1519年‐1556年)は1516年にスペイン王として即位し、1519年にカール5世として神聖ローマ皇帝に選ばれ、翌年アーヘン大聖堂で戴冠式を挙げました。
1492年はすごい年。グラナダが陥落し、コロンブスが新大陸を発見する
スペインは8世紀以来、イスラム教徒の支配下にありましたが、11世紀からカトリック教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が行われ、1492年にイベリア半島最後のイスラム王朝グラナダが陥落し、カトリックの勝利に終わりました。
また、カスティリャ王国の女王イサベル(フアナの母)の援助を得て大西洋に船出したコロンブスは1492年に新大陸を発見しました。スペインは1521年にメキシコのアステカ王国を征服し、1533年にペルーのインカ帝国も征服しました。また、カルロス5世の特許を得たマゼランの船は1522年に世界周航に成功しました。当時のスペインは大西洋の彼方の新大陸から極東のフィリピンまで支配する植民帝国として躍進中であったため、ハプスブルク家は「太陽の沈まない国」の支配者となりました。
ルターの宗教改革
16世紀初め、ローマ教会はバチカンにあるサン・ピエトロ大聖堂の再建費用捻出のため免罪符を発行し、それにより権威を失いました。1517年、ドイツ人のルターは「95か条の論題」を発表して法王を告発しました。当時、印刷技術の発明とも重なり、ルターの説(教会の儀式や権威を否定し、聖書のみを信仰の対象とする聖書主義)はたちまち大きな反響を生みました。
ルターを支持するプロテスタントは諸侯の間で次第に広がり、1530年にプロテスタント諸侯はシュマルカルデン同盟を結成してカール5世と対立し、1546年にシュマルカルデン戦争が起きました。この戦いではカール5世が勝利しましたが、1555年にアウクスブルクの宗教和議でルター派は容認されました。
カール5世退位後、ハプスブルク家は2系統に分裂
カール5世退位後、ハプスブルク家は長男フェリペ2世のスペイン=ハプスブルク家とカール5世の弟フェルディナント1世のオーストリア=ハプスブルク家に分裂しました。
カルヴァン派のオランダ、スペインから独立
16世紀、ネーデルラント北部7州の民族はゲルマン系で言語はドイツ語系、宗教は主にカルヴァン派で海運と商業が盛んでした。南部10州の民族はラテン系で言語はフランス語系、宗教は主にカトリック、農牧業と毛織物工業が盛んでした。ネーデルラントはスペイン=ハプスブルク家によって支配されており、カール5世の息子のフェリペ2世(スペイン王在位1556~98)の対ネーデルラント政策はカルバン派教徒の弾圧、自治権の抑制、重税を課していました。それに反発してオランダ独立戦争が起き、1579年にネーデルラント北部7州はユトレヒト同盟を結成し、1581年にオラニエ公ウィレムを総督としてネーデルラント連邦共和国を宣言しました。(南部10はスペイン領として残り、後にベルギーになりました。)
三十年戦争(カトリックvsプロテスタントの戦争)でドイツはボロボロに
カール5世はアウクスブルクの宗教和議でルター派を容認しましたが、その後スペイン=ハプスブルク家は徹底した異端弾圧政策によってカトリックを擁護しました。一方、オーストリア=ハプスブルク家のフェルディナント1世は柔軟な立場を取り、息子のマクシミリアン2世はむしろプロテスタントに近かったです。彼の後を継いだルドルフ2世(神聖ローマ帝国皇帝在位1576年‐1612年)は、新旧両教から距離を置き、首都をウィーンからプラハに移し、錬金術や占星術、膨大な量の美術品の収集に没頭する奇人でした。
こうした中、新旧両教の間で緊張が高まりつつあった1618年、プラハのフラチャニー城で、2人の皇帝代官らが窓から放り投げられる事件が発生し、この事件を発端としてボヘミアから三十年戦争が始まりました。三十年戦争ではスペイン、ローマ法王の救援軍、スウェーデン、スペイン、フランスなどの欧州諸国が介入し、紛争は国際的な規模に拡大して長期化していき、宗教戦争ではなく露骨な政治戦争になっていきました。三十年戦争の主戦場となったドイツとボヘミアは荒廃し、ドイツの人口の1/3が減ったと言われています。
イギリス宗教改革、無敵艦隊がイギリスに大敗
イギリスのヘンリ8世(イングランド王在位1509‐1547)は男の子を生めない妻キャサリンと離婚し、愛人のアン=ブーリンと結婚したいと思っていましたが、ローマ教皇クレメンス7世に離婚を訴えましたが認められなかったため、離婚を認めないカトリック教会を離脱し、1534年にイギリス国教会という新しい宗派を成立させ、自らその頂点に立つ「首長法」を発布しました。ヘンリ8世の死後、エドワード6世(在位1547‐1553)が一般祈祷書を公布し、エリザベス1世(在位1558‐1603)は1559年に統一法を発布し、礼拝や儀式に関する作法を定め、イギリス国教会を確立しました。
こうしてカトリックのスペインとプロテスタントのイギリスとの関係は悪化しました。1588年、エリザベス1世は当時絶頂であったスペインの「無敵艦隊(アルマダ)」を撃破しました。
スペイン=ハプスブルク家断絶
スペイン・ハプスブルク家の最後の王カルロス2世(在位1665‐1700)は、病弱で知的障害があり、王位継承者がいませんでした。1700年にカルロス2世が亡くなり、スペイン=ハプスブルク家が断絶すると、フランス王国ブルボン朝の国王ルイ14世が孫のフェリペをスペイン王としたことによって、1701年から1713年にかけてスペイン継承戦争が起こりました。(スペイン+フランスVSオーストリア+イギリス+プロイセン+オランダ)結果、1713年に締結されたユトレヒト条約によってルイ14世の孫フェリペがスペイン国王として即位することは認められましたが、ネーデルラント、ミラノ、ナポリ、サルデーニャはオーストリア・ハプスブルク家へ、ジブラルタルとメノルカ島はイギリス領へ、アメリカ大陸のニューファンドランド島とアカディアとハドソン湾地方がフランス領からイギリス領となり、スペインは没落し、イギリスは北アメリカ大陸の植民地を得てイギリス優位の時代に入りました。
マリア・テレジアとマリー・アントワネット
スペイン=ハプスブルク家が断絶した頃、オーストリア=ハプスブルク家も皇帝カール6世(神聖ローマ帝国皇帝在位1711年‐1740年)に男子の世継ぎがいなかったため、断絶の危機に陥っていました。1740年にカール6世が亡くなると、長女のマリア・テレジア(ハンガリー女王在位1740年‐1780年、オーストリア女大公在位1740年‐1780年)が23歳でハプスブルク家を相続することになりました。それに対してバイエルンとザクセン選帝侯が反発し、プロイセンは石炭も鉄鉱石が豊富な上、肥沃な農業地帯であるシュレージエンに侵入してきて、オーストリア継承戦争が始まりました。
マリア・テレジアはハンガリーで戴冠式を行い、ハンガリー議会に涙ながらに支援を訴えました。ハンガリーは軍隊を送り、財政支援をしたため、オーストリアはプロイセンとの闘いを乗り切りました。
1745年にマリア・テレジアの夫のフランツ1世(神聖ローマ帝国皇帝在位1745年‐1765年)が皇帝に選ばれました。マリア・テレジアは、皇妃として夫フランツと共同統治し、経済政策や教会政策に取り組んだほか、国の基幹産業である農業分野にも着目し、農民保護にも取り組みました。
マリア・テレジアは16人もの子どもを産み、政略結婚を推し進めました。プロイセンと対抗するために、長く覇権を争ってきたフランスのブルボン家との関係を重視し、長男ヨーゼフ、三男レオポルト、四男フェルディナント、六女マリア・アマーリア、十女のマリア・カロリーナの5人をいずれもイタリアのブルボン家系のもとへと嫁がせました。さらに、11女のマリー・アントワネット(フランス王妃在位1755‐1793)は、フランス国王ルイ16世の王妃として迎え入れらました。しかし、マリー・アントワネットはフランス革命という時代の渦に巻き込まれ、悲劇の死を迎えました。
神聖ローマ帝国解体、オーストリア帝国になり、1918年にハプスブルク帝国終焉
フランス革命後、市民革命を恐れたイギリスやスペイン、オーストリア、プロイセンが対仏大同盟を結成しました。それによってフランス国内は対外国に対して危機感が高まりました。また、ルイ16世処刑後、ロベスピエールによって恐怖政治が行われ、政局が不安定になりました。1794年にロベスピエールが処刑されて、1795年に総裁政府が設立されました。
その不安定な政局の中、1796年に軍人だったナポレオン(皇帝在位1804‐1814、1815)はイタリア遠征をしてオーストリアを破り、1798年にはマルタ島を経由してエジプト遠征をしてオスマン帝国を破りました。その功績によりフランス国民の支持を得て、1799年にナポレオンは政権を掌握しました。1802年にナポレオンは終身統領となり、1804年にフランス民法典(ナポレオン法典)を成立させました。そして同年、パリのノートルダム大聖堂にローマ教皇ピウス7世を招いて戴冠式が行われ、皇帝ナポレオン1世となりました。
ハプスブルク展の感想
ここからは、ハプスブルク展の感想です。ハプスブルク展では、歴史の中に登場してくるマクシミリアン1世やルドルフ2世、フェリペ4世、スペイン王妃イサベル、マルガリータ、マリア・テレジア、マリー・アントワネット等の肖像画やハプスブルク家の歴代の人たちが集めた甲冑や金銀細工などの工芸品、レンブラントが描いた絵画などとても貴重な作品を沢山観ることが出来ました。どの肖像画も活き活きと美しく描かれていて、スペインの巨匠ベラスケスの『マルガリータ』や『イサベル』の肖像画は、生きていて今にも話しかけてきそうな雰囲気でした。
世界で初めてカメラ撮影されたのは1826年フランスでだったようです。エリザベトの肖像を検索してみると、写真で撮影されたものが沢山出てきたのですが、絵画で描かれた肖像画の方が人柄が伝わってきて良いなと思いました。
まとめ
ハプスブルク展ではハプスブルク家の人物の肖像画を観ることが出来てとても楽しめました。世界の歴史に多大な影響を与えてきたハプスブルク家の人々の肖像画なので、歴史的にも芸術的にも大変貴重で、オーストリアのまさに国宝なのだと思います。
450年以上続いたハプスブルク朝の歴史は、主要な部分を浅く調べただけでもこんなにも長くなってしまいました。私はスペイン黄金時代の歴史が特にドラマチックで面白いです。
神聖ローマ帝国はカトリックを統治の根拠にしてきたので、ルターやカルバンが登場し、宗教戦争も起こり、弱体化していきました。また、神聖ローマ帝国が長く続いたため、ドイツには長い間多くの諸侯の領邦が存在し、国の統一が遅れたのも理解しました。(そのお陰でノイシュバンシュタイン城など素敵なお城が沢山あるのですね!)
プロテスタントの人々によって建国されたオランダはプロテスタントの国なので、オランダの教会にはイエス・キリストやマリア様の像も祀られていなくて、ガラーンとしていました。(教会の中でバスタブの商談会が開かれていたのを見た時はさすがにショックを受けました)隣国のドイツやベルギーはカトリックの国なので、ケルン大聖堂があったり、教会には美しいステンドグラスや祭壇があったりしていて、オランダとの違いに驚きました。ヨーロッパは宗教によって国境が出来ているところもあるので、宗教は歴史に大きな影響を与えたのだと理解しました。